うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

お薄はしばらくお休みしますと、【このような錯覚を克服するためには、子どもは何らかの仕方で発声の必要性を理解しなければならない。大半の幼児は特に母親との間で、これをほんの部分的にしか認めていないのである】


今日は夜勤明け。取り敢えず、毎日のルーチンの読書を、親分配給のマックのコーヒーチケットで(笑)マックでコーヒーを飲みながら1時間本を読んでから帰宅しました。
 昼食は、パワーズさんのおにぎり一つと、調理済みのサラダを買って来て頂きました!
食後、副理事長から頂いた、山口土産がまだ残っていたので(笑)お薄を頂きました。
 お抹茶はこれでなくなりましたが、今年も夏の間は買わないでおこうと思っています。
お神酒の徳利は、底が抜けていて、水が漏れるので(笑)写真を撮ったら、違う花器に入れ直しました(笑)
 自分と同じで?見かけ倒しです!


 給与計算や事業報告書などのチェックをして、こちらもルーチンのギターを弾きます、(笑)
可能な限り、頑なにルーチンを守っています。(笑)


 本の中に出て来る、難しい名前の方々をググりながら読んでいて、バートランド・ラッセルに惹かれて、少し深追いしてしまいました。(笑)
 ウィキペディアにあった、語録が中々素敵だったので、抜粋して自分の為にアップさせて頂きました。(笑)


バートランド・ラッセル ウィキペディアより)


「不幸な人間は、いつも自分が不幸であるということを自慢しているものです。」

「'死の恐怖'を征服するもっともよい方法は、(少なくとも私にはそう思われるのだが)諸君の関心を次第に広汎かつ非個人的にしていって、ついには自我の壁が少しずつ縮小して、諸君の生命が次第に宇宙の生命に没入するようにすることである。個人的人間存在は、河のようなものであろう。最初は小さく、狭い土手の間を流れ、激しい勢いで丸石をよぎり、滝を越えて進む。次第に河幅は広がり、土手は後退して水はしだいに静かに流れるようになり、ついにはいつのまにか海の中に没入して、苦痛もなくその個人的存在を失う。老年になってこのように人生を見られる人は、彼の気にかけはぐくむ事物が存在し続けるのだから、死の恐怖に苦しまないだろう。そして生命力の減退とともに物憂さが増すならば、休息の考えは退けるべきものではないだろう。私は、他人が私のもはやできないことをやりつつあるのを知り、可能な限りのことはやったという考えに満足して、仕事をしながら死にたいものである。 (Portraits from Memory and Other Essays, 1956 より)

「野原を通ってニューサウスゲートへと続く道があった。そこで私は一人で夕陽を眺め、自殺について考えたものだ。でも結局、自殺はしなかった。もっと数学について知りたいと思ったから」 (『The Autobiography of Bertrand Russell(ラッセル自叙伝)』より)

「我々は、無関心な人間のみが公平な人間であるという考えを拒否しなければなりません。我々は偏見のない広い心と空っぽな心とを混同するような、人間の知性についての堕落した考え方は拒絶しなければなりません。」 ヴェトナム戦争犯罪法廷メンバー第1回集会(1966.11.13)でのラッセル(94歳)のスピーチより)

「経済学は人々がどのような選択をするか明らかにするが、社会学は人々に選択の余地がないことを明らかにする。」




 マックでこの章は読み終えましたが、まとめと課題に行く前に読んでおいた方が良いと思われる箇所のアップです。

臨床素材 No.2
〜彼女がより従順な性質の対象を取り戻すため、分析家の写真を撮り分析設定の外に投影していることがようやくフィリッパに解釈された時、彼女は拒絶症の沈黙を放棄し、「写真と人は同じようなものなのです」と確証したことに分析家は驚かせた。3年間の精神分析を治療的勝利と主張することはかなり難しいが、患者の妄想について目立った変化が引き起こされた。フィリッパは唯一現実に存在する人であり妄想的な設定の中の女優から、カメラマンとカメラが融合した存在である、ディレクターに変貌していた。彼女は、妄想型から解体型の妄想システムに変わったと言えるかもしれない。金持ちのメルツァー先生によってコントロールされる代わりに、今や彼女は彼の写真をコントロールしていた。この過程で、彼女の思考を声に出す必要性は干上がり、彼女の会話はパントマイムでなされることになった。明らかに写真は聞くことはできず、見るだけのものであった。しかし、それにもかかわらず「人と同じようなもの」だったのである。 
この事例の論点は、実際に言語を声に出すことの役割を明らかにすることである。人はそれを当然のものとみなしてはならない。ありきたりの内言と外言の区別は、さまざまな可能性をカバーするものではない。フィリッパのパントマイム化された会話は「外言」だったが、それにもかかわらず声に出されなかったことがみてとれる。シルビアの緘黙、あるいはそれに向かう傾向は、対象関係からの撤退、そしてコミュニケーションする欲望の喪失を例証していたが、フィリッパの緘黙はこれとは反対に、対象関係は達成しているが、それは妄想対象であり、理解してもらうために声を出す必要がないという性質を持つ対象であった。そのような性質は妄想対象だけが備えているものと考えてはならない。投影同一化の万能的側面は、おそらく常にこうした性質を幾分持っているだろう。心の状態、そしてそれが埋め込まれているイメージ、あるいは夢イメージは対象の心の中にそのまま植え付けられているようにみることができる。このような錯覚を克服するためには、子どもは何らかの仕方で発声の必要性を理解しなければならない。大半の幼児は特に母親との間で、これをほんの部分的にしか認めていないのである。