うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

加藤潔先生の新刊と、ピックと、【この自閉症の見方は、原始的な強迫機制の使用を主に強調するものである。それは、自閉症児の知覚システムの機能不全、精神活動の不足、常同行動の検討に新しい展望を与える】


朝、メールのチェックをしていたら、ノースカロライナ大学のTEACCH部の視察研修のときのホテルで同室だった、加藤潔先生から珍しくメールが届いていて、開いたら、ご自身が書かれた本(2冊目でした!)の宣伝でした。(笑)
 返信をしようとパンをかじっていたら(笑)現場から呼び出されたので(笑)中途半端にしたまま、現場に出動しました。色々ありましたが、何とかクリアーしてから、マックでコーヒーを頂きながら本を読み、少しクールダウンして、先程帰宅し、返信させて頂き、直ぐにAmazonで2冊注文しました!
 本も楽しみですが、再会も楽しみにしています。
 北海道の友人が結婚したので、冷やかしがてら(笑)浦臼町に行ったついでに?加藤先生にお会い出来たら良いないとも思っていますが、いつ行けるでしょうか?本の購入伺いを親分にしたときに、友人に会ったついでに加藤さんに会い、来年の総会で講演をしてもらえるように話しをつけてこいと言われましたが、本当に多忙な方なので心苦しさもありますが、是非お会いしてご指導頂ければ幸いだとも思ってしまいます。
 取り敢えず本が来るのが楽しみです!

内容紹介

発達障がいがある気になる子どもの特性を「少数派」という視点からポジティブに発想転換することによって、子どもが本来持っている「その気」を引き出すヒントを満載。人とのかかわり・生活や学習・障がい観や家族としてのありようなど、具体的に解説。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

加藤/潔
社会福祉法人はるにれの里札幌市自閉症者自立支援センターゆい所長。昭和61年、北海道教育大学函館校(小学校教員養成課程・国語科)卒業。函館市立深堀小学校教諭、戸井町立汐首小学校教諭、北海道教育大学附属養護学校教諭、北海道教育大学附属養護学校特別支援教育センターコーディネーター、社会福祉法人北翔会札幌あゆみの園発達支援部長、社会福祉法人はるにれの里札幌市自閉症・発達障がい支援センターおがる所長等を経て、現職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)




 もう一冊は、2年前の出版のようですが、こちらも分かり易そうなので、皆さんに薦めたいと思っています。
ノースカロライナでは、喘息でドクターストップがかかりましたが、無理やり行ったので、皆さんにご迷惑をおかけし、加藤先生に一番ご迷惑をかけましたが、本当に優しい方で、メジホフ先生を札幌に招致されていましたが、いつも寄り添って下さっていたので、いつの間に話しをつけておられたのか?不思議でした。ショッピングセンターで(ノースカロライナの)一緒に食べたお寿司とうどんは、食べられたものではなかったです....。そんなことも思い出しました(笑)
 仕事が出来る方は、いとも簡単に難しいことをこなされているんだなと思いました。


 ピックはそろそろ決めないと、際限がないように思えて来ました(笑)
きっと黄色の物が、取り扱っているお店も多いのでそれになりそうですが、円谷プロのピック(メーカーは調べていませんが)弾き易かったので、捨てがたい(笑)怪獣の絵がなくなるのは残念なのでコレクション(3種類ありました)なってしまいそうです(笑)
 日課のギターも30分は弾いて、総会の書類の見直しを続けています。ほぼ直す箇所がなくなったと思われますが、ぎりぎりまで見ておきます。

 もう少ししたら、夜勤にはいります。


 本当にこの章も勉強になっています。
 タスティン・アルバレズ・そしてこのメルツァーを読み終え、本当に理解できれば、下記のように思えるときが来るように思われます。

『この自閉症の見方は、原始的な強迫機制の使用を主に強調するものである。それは、自閉症児の知覚システムの機能不全、精神活動の不足、常同行動の検討に新しい展望を与える。』



考察
 ピフィーと彼の心理療法の流れに特徴的なのは、今述べたような進展が見かけのものに過ぎないということである。振り返ってみても、これらの進展は、上述したような意味や価値があるとやはり思う。しかし問題に対する彼系統だった忍耐強さは、同じことを何度も繰り返すような固執になり、そこからさらに一歩進んで袋小路になることがあまりにも多い。私は今、この素材はまた遊びに彼の精神病理のもっとも頑なな側面、すなわち原始的強迫機制をも示していると考える。この例において、彼自身を表すブロックをつなぎ合わせることは、断片へと分裂された対象の統合に関するコミニュケーションのように見えた。私は今、それが部分へと切片化(segmented)された対象を寄せ集めて組み立てることに関して文字通り的確に言い表したものと考える。組み立てられたブロックのように、こうした対象は再び切片化され、際限ない組み合わせで組み立てられる。しかしそこには修復という治癒過程、あるいは統合という成長過程は起こらない。 
 分裂されている対象について語る時で私たちは、それが情動経験のラインにそって分割されているということを思い浮かべる。異なる情動経験とそれらを引き起こす源は互いに離されたままである。正常な早期の分裂において、母親対象は分割される。ある対象は理想化され、満足させるすべての源であると感じられ、迫害的なものとして経験されるもう一つの部分から遠ざけられるのである。
 切片化あるいは(メルツァーの概念である)分解された(dismantled)対象は、情動経験あるいは潜在的な心的経験の線上の分裂というよりむしろ感覚的経験の切片にしたがって通常、小さく、単純化された部分にされてしまった対象である。 
 たとえば、自閉症の子どもは、味覚を有する母親対象を持つ一方、嗅覚、視覚、聴覚をそれぞれを有する対象を別々に持っているかもしれない。同様にこうした子どもは、味わう自己、見る自己、聞く自己などを持っているだろう。これらの対象の切片は互いに離され、それぞれが万能的に支配されたままである。あるいは聞かれる母親と聞ける自己は放棄され?代わりに、手の中に留められ、思うままに操作される母親の一部と等価な、生命のない対象に向かうかもしれない。
 この自閉症の見方は、原始的な強迫機制の使用を主に強調するものである。それは、自閉症児の知覚システムの機能不全、精神活動の不足、常同行動の検討に新しい展望を与える。〜