うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

カーグの準備?とCDに落としましたと、【3,ビックとメルツァー――付着同一化と分解】


昨夜、寝ようと寝室に行ったら......。明日のカーグの準備の物で一杯でした(笑)
押しのけて寝ました(笑)

 こちらも昨夜、ひーひー王子と散歩に行った時に頂いた白梅を入れようと思いましたが、眠気がきたのでその後、適当に水に入れました。
 椿は部屋の中で頑張って咲き続けてくれているものです。


 先程、明日のバンドクラブで配らせて頂くCD(夢の中へと東京ブギウギ)を10枚落とさせて頂きました。おっちゃんのギター1本ですが。
結構時間がかかります(笑)もうCDの時代ではないのかもしれませんね?このMTRも12年物になりました。まめに使っているので、壊れないのでしょうね?テープ時代のMTRは直ぐに壊れたので、デジタルだからでしょうか?
 自分の曲で一杯になったMTRは16年物ですが、一部を除いてまだ使えます。
人も人から見られないと存在がなくなるように、機械や楽器もそうなのかもしれませんね。
 

 今日は、日中賑やかだったので、事務仕事で入っていましたが、現場に入らせて頂きました。
ガーデンパークに行き、みんなで散歩しようと思いましたが、重度の方々が拒否されたので(笑)ドライブと外食だけになりました(笑)
 富士山は見えるには見えましたが、頂きは雲の中でした.....。

 夕方、送迎ミスが発生し、申し訳ありませんでした。



 アップは昨日読ませて頂いた箇所で、前の本と連続しているかのようでした。
繰り返し同じ内容の文章を読む事で、より深く理解が出来て行くようにも感じました。

精神分析から見た成人の自閉スペクトラム』中核群から多様な拡がりへ福本修・平井正三 編著
 第Ⅰ部 総説と展望
第1章 自閉症中核群への精神分析的アプローチ・平井正
3,ビックとメルツァー――付着同一化と分解
  クラインの死後の1960年代、シーガル、ローゼンフェルト、ビオンといってクライン派の主力は分裂と投影同一化というクラインの遺産を武器に、成人の統合失調症境界例などを自己愛の病理という視点で探究していった。この流れとは別に子どもの臨床への強い関心を持ち続けたビックとメルツァーは独自の探索の道筋を歩み始めた。
 ビックは、彼女が始めた訓練療法である、乳児観察(Bick,1963)を通じて、クラインの述べる「正常な分裂」よりも原始的なこころの状態がみられることに注意を向けていった。それは、心身未分化な水準での未統合状態であり、自己は「皮膚」によって束ねられていないとバラバラになると感じられている状態である。こうした自己の未統合状態を束ね、まとまりを持った自己感を創出するには、外的対象によってしっかりと束ねられる経験が繰り返される必要があるとビックは論じた。こうした「皮膚」機能を遂行してくれる外的対象の経験を通じて、自己は外側の「皮膚」に守られた内部を持つ存在という感じを持ち、また対象も内部を持つ存在として認知されていく。このような前提が生じて初めて、クラインのいう分裂と理想化、すなわち妄想・分裂ポジションが形成されていくわけである(Bick,1968,1986)。
 こうした「皮膚」コンテイナーが形成されていないと、子どもは、その代用物として「代理皮膚」(second skin)を発達させる。これは自分を自分でだっこするような、一種の自己包容であり、それは極端に活動的になり筋肉系を発達させたり、いつもおしゃべりをし続けたりする形をとったりすると指摘している。こうした代理皮膚形成とは別に、こうした子どもたちは、投影と摂取というサイクルを作動させて人と関わることで成長するという過程をうまく歩めず、人にくっつくことで人と関わり、人のまねをすること「付着同一化」(adhensive identification)であたかも成長しているかのような外見を発展させ、表層的なパーソナリティを形成していく。
 以上の「代理皮膚」や「付着同一化」の着想は自閉症の中核群との分析経験から提出されたものではないが、その後、自閉症の子どもの精神分析的理解において重要な役割を果たしていく。それを最初に行ったのがメルツァーである。

 メルツァーは、タヴィストックで訓練を受けた4人の児童心理療法士からなる研究グループを組織化し、システマチックなやり方で自閉症精神分析的に探究していった(Meltzer et al.,1975)。その結果、メルツァーは、自閉症の子どもの心的状態は、「中核的自閉状態」と「ポスト自閉状態」に分けられると考えた。前者は、基本的に無思考状態であり、そこでは事象の連なりがあるだけで「経験」はなく、転移関係も生じない。このような心的状態は、共感覚性を、各感覚モダリティに「分解する」(dismantle)ことで生起する。この分解過程は、分裂過程の一種だとみなせるが、通常の分裂が攻撃的破壊的な色彩が濃く、分裂された対象は、ダメージを受け迫害的な対象に変容するのに対して、分解過程は、対象にやさしく、対象は容易に再び元通りに組み立てられるのが最大の相違である。
 このような中核自閉状態は経験そのものを不可能にするので、自閉症を持つ子どもの発達は停滞したり歪んでいたりするものになりがちである。それが、ポスト自閉状態である。メルツァーは、その主な特徴を、付着同一化と強迫機制という概念を導入した。それぞれの主体は、それが生きる「空間」を持っており。その空間の様態は、それぞれ異なるという視点である。一次元的世界においては、対象には表面しかなく、それにくっつくか離れるかしかない。これが付着同一化の世界である。対象の内部に自分が保持されることもないし、自分の内部に対象を保持することも不可能である。多くの自閉症児は、こうした完全に平らな対象ではなく、穴だらけであったり、すぐに破れてしまったりする容器(コンテイナー)のように対象を経験しているように見えることは多くの臨床家が指摘している。クラインの言う分裂と理想化、ビオンの言う至上な投影同一化を可能にするには、ある程度確固とし、容器対象、すなわち三次元的対象が必要なのである。
 このような二次元性の病理に加えて、メルツァーは、原始的な強迫機制という点で自閉状態の無思考性の本質に迫ろうと試みる。彼は、強迫機制の広いスペクトラムを想定し、両親対象が結びつかないように分離してコントロールするという神経症水準の強迫機制のような洗練されたものから、共感覚性を分解し各感覚モダリティに分けることで両親対象が結びつかないようにしているものまであると考える。この視点は、自閉症を生起させる機制をエディプス状況と結びつけるだけでなく、意味や情動の発生源とみなせる結合両親対象が分解されることで、情動性や意味の希薄なこころの状態が生じるという視点を提供する。
 『自閉症世界の探究』執筆時、メルツァーは、自閉症になる子どもは生来的に優しい気質で抑うつ的な痛み(対象の痛み)を感じやすいうえに、母親の抑うつ状態が重なった場合に生じうるとしている。その後、彼は、人間の根源的葛藤として美的葛藤(aesthetic conflict)を概念化した際(Meltzer & Harris,1988)に、自閉症の子どもは、大変美的なものを感じやすい面があり、「母親の外見の美しさに衝撃を受ける一方、その内面は謎であることに圧倒される葛藤」に対して、通常の子どものように分裂によって解決するのではなく、退却する道を選んだ状態であるとしている。そして、自閉症を持つ子どもは、対象の不在ではなく、対象が目の前にあるという情緒的衝撃に耐えられず撤退していると見る視点を示唆している。
 メルツァーは、二次元性の病理や分解を基盤とした強迫機制という、ポスト自閉状態の問題は、非自閉症の成人にも広く見られることを示唆していることは、基盤に発達障害様の臨床像を呈する成人の問題という本書の問題意識とも大いに関連してくるだろう。