うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

うたたねご飯と、ピックと、【現代文明は死を忘れた文明です。死を忘れた文明は本当に平和を守ることはできません。】

 
写真は、昨夜のうたたねの食事です!
毎日、支援員と世話人さんが、バランスを考えて作ってくれています。
 イチゴは、すろーじゃむでできたものです。沢山親分が採って来てくれていて、朝食にもイチゴが出ていました。


 今日は夜勤明け!細かい事務仕事をしても間違えるだけなので(笑)取り敢えずお薄を頂き、明日のバンドクラブの準備をしました。
 都おどりのお皿は、碧南に副理事長に会いに行った帰りに寄った古道具屋さんで200円で買いました!ネットだとやくすても1,000円はするので、おそるおそるお店の方に聞いたら200円とのことで、買ってもらいました。


 335の弦も弾いてたら1弦と4弦が切れたので、張り替えましたが、ピックの選択に時間が掛ってしまっています。麺とスープが絶妙に絡むみたいに?(笑)弦とピックが絡むなら、黄色のものが良いように思えますが、メリハリを利かせようと思うなら、フェルナンデスの白いピック(中が黒いもの)が良いように思えます。
まあ、曲によって変えればいいだけかもしれませんね(笑)

 335の弦の1弦は0.11に替えて張っています。弦切れを防ぐのと、イントロや間奏・エンディングに、トップにメロディーを持って来ることが多いのでより音をはっきり出すのに使わせて頂いています。

 テレキャスターは、暑くなると塗装が溶けるので(笑)しばらくは335の季節です(笑)

 


 本も少し読ませて頂きましたが、ニュースを見ていると、違う箇所を思い出したので、アップさせて頂きました。

 先日、読み返した本からです。昭和43年ころの文章と思われますが、その頃と今は何が変わったのでしょうか?ITでは目覚ましい発展が見られますが、逆に自分の狭い意見がSNSなどを通じて簡単に世界発信でき、人に対する批判もそれと同じようにできる......。議論し合うのは良いことだと思いますが、自分の考えの押し付け合いは(自分もしてるかもしれませんが....)ネット上で目にするだけでも嫌な気持ちになりますね....。そう思うと、精神的にはむしろ退行しているのでは?とも思ってしまいます。西洋文明のくだりもよくよく読めば、現在を語っているようにも見えて来ます。フランスは革命で市民が力を持ったはずでしたが、傍目に見ても1/3の有権者が棄権したというニュース(それが本当なら)を見ていると本当の力ってなんだろう?とも思ってしまいます。
 資本主義(民主主義)と社会主義の良い所をとって....云々は自分が若い時から言っていますが、何も変わっていない感じがしています。


 下記は、今となっては使い古された感があるかもしれませんが、バタバタした毎日を送ってしまっている人間には、改めて支援などを見直すヒントになりました。
 
『物を作り出すにはいろんな新しい見方や方法がある。たとえば、ものをひっくり返してみる、逆立ちをして見る。そうすると新しい視点もでる。今や創造の方法ということがやかましく言われなくてはならぬ時代がきているのです。』


 下記を思い出したので、今回その周辺をアップさせて頂きました。
最近のニュースを見ていて、本当にそう思いますし、支援方法を考えながら、フロイト死の欲動などへ頭がシフトして行きます。

『現代文明は死を忘れた文明です。死を忘れた文明は本当に平和を守ることはできません。』



日本文化論
補遺
西洋文化を学ぶだけの時代は終わった
――私は、西洋の文明は日本にとって必要ではないとは考えておりません。日本は西洋の文明を今後ますます採り入れなければならない。われわれは、明治以来、まだ西洋文明の一部分しか採り入れてはいない。もっと多くのものを謙虚に学ぶ必要がある。
 明治という時代は学ぶということに重点があった。しかし、今や西洋の文明だけを採り入れて事足れりとした時代は過ぎました。西洋の文明を採り入れながら、新しい文明を創造するという点に重点がかかっていると思います。
 その理由は、ひとつは、日本は技術文明の採り入れにおいて成功し、技術文明という領域においては西洋にあまりひけをとらない状態になった。もうひとつ、西洋の文明そのものが、今や世界の文明のひとつに後退した。西洋の没落ということが言われる時代になった。
 このような二重の意味において、われわれは西洋文明の模倣ではなく、文明の創造をしなくてはならない。私はこのことを強調する余り、多少の誤解を生んだかも知れないと思います。
 このことは科学技術の面でも言えることで、私の友人に星野芳郎さんという科学者がいます。星野さんが、いろいろの一流会社の技術の重役に会って、科学技術の面では今や、イギリスはもとより、アメリカも行きづまりにきていると言ったら、重役たちは一斉に顔色を変えたという。「今までの日本技術というものは、どこかから学んできた。もう学ぶところがなくなったのか」ということで心配したわけです。今まで西洋から学んできた技術文明を、今やわれわれの手で発展させてゆく時代が来た、と星野さんはおっしゃるわけですが。
 また市川亀久弥さんという、私の友人で同志社大学の先生をしている人は、「創造の方法」ということをおっしゃる。物を作り出すにはいろんな新しい見方や方法がある。たとえば、ものをひっくり返してみる、逆立ちをして見る。そうすると新しい視点もでる。今や創造の方法ということがやかましく言われなくてはならぬ時代がきているのです。〜




生と死をめぐる思想の宝庫としての仏教経典
〜近代の哲学は、人間を先ず理性的なものであり、理性的な人間は死なないものであると考えます。デカルトは、人間と物質のみが真の実在であるといいます。人間は不死であるという考えているわけです。 このような考え方に対し、仏教は、死というものをどう考えるか。仏教では生死をどのようにしてのがれようとするかを考えるのです。念仏によってのがれるのか、それとも座禅によってのがれるか、それとも『法華経』の進行によってのがれるか、――いずれにせよ、生死を超えようとしています。そこに私は仏教の現代的意義を求めたいのです。現代文明は死を忘れた文明です。死を忘れた文明は本当に平和を守ることはできません。仏教には生死に関する知恵があります。
 次に慈悲ということです。慈悲はキリスト教の愛とどうちがうか。仏教では、生きとし生けるものすべてとわれわれ人間とはつながっていると考えます。キリスト教では「汝の敵を愛せよ」といいますが、仏教の思想では、本来敵というものはないのです。キリスト教での敵という観念には、エホヴァのエゴイズムが反映していると思わざるをえません。仏教では、敵というものをもともと考えないのです。
 もうひとつ、仏教には重要な思想として、業の思想があります。ヨーロッパの歴史の見方は、歴史は進歩するものであるとしていますが、これはキリスト教の考え方からきているので、歴史は紙の意志の方向に進んでいるというのです。今は悪の世であり、人間は痛めつけられているが、しかしいつかは神の国が実現する。こういう終末論というものがあります。マルクス主義も明らかにひとつの終末論であると思います。
 ところが、人間の歴史は神の国の実現に向かって進んでいるはずなのに、原・水爆によって人類は滅亡するのではないか、という心配がでてきたわけです。この現実は神の国歴史観では解決できないのではないか。人類が殺し合いをしてきたのは業ではないか。人間は業をまぬがれられないのではないか。戦争をたえずやってきた業がこり固まって、やがて人類は地獄に落ちるのではないか。したがって私は、この業の見地から歴史を見直してみるのが肝心ではないかと思うのです。
 この業の思想というものは、親鸞にも、道元にも、日蓮にもあり、長い間、日本人の精神を養ってきたものと思います。しかし、遺憾ながらヨーロッパの精神に支配されてしまった近代の日本人はそれを忘れてしまった。どうも私は人類が進歩の方向に直線的に進んでいるという考え方をとれないのです。むしろ人類はどうにもならない業によって滅びるかもしれない。それをどうまぬかれるか、こういう思想の方が今後人類のためによいのではないかと思います。