うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

さくらんぼと、顔が痒いねこさんと、【a.生活空間の組織化の続き】



 夜勤明け、まりちゃんと、あっ君と一緒に、原さん宅にお邪魔し、さくらんぼを頂きに行って来ました。
と言っても、自宅の道路を挟んでお隣ですが(笑)
 

 まあ、今日が夜勤で、午前中会議があった親分がまだ自宅にいたので、呼びつけてやりました(笑)
あっ君とおっちゃんは見てるだけの人でした!


 沢山頂きました!
ありがとうございます!


 屋根の上では、はしごで、顔をしきりに掻いているねこさんがいました(笑)
よっぽど痒かったのか?ずっと掻いてました(笑)


 その後、おっちゃんはおっ君とジャスコに行きました!

 あっ君をうたたねに送って帰ろうと思ったら、ほっとしたのか?急に眠気がきてびっくりし、体が動かなかったですが(笑)イヤホンでジミヘンを流して歩いて帰りました(笑)
 総会のことなんかをやっていたらあっという間にこんな時間.....。夕食も先程で、夕食後、ひーひー王子の散歩を適当に済まそうと思ったら、気持ちが伝わったのか(笑)帰るもんかと、ぐいぐい引っ張られて結局30分くらいの散歩になりました。
 牛にひかれて善光寺詣りみたいに、なんでも手を抜いたらアカンなと思い知らされました.....。


 ギターと読書は少しだけですが、何とかしました(笑)アニーボールのアコースティックギターの6弦が、昨日切れました!この前は4弦.....。他のメーカーにしようか?と思うのですが、ダダリオ、マーティンと試し、やっとギターに合った弦を見つけたので、もうしばらく同じアニーボールを使ってみようと思っています。斉藤和義の歌?ラップ?に6弦切れた!って歌詞がありましたね(笑)それだけありえないことでしょうか?


 アップは、昨日の続きで、昨日読んだ所です。同じような内容が続いているようにも感じますが、それだけ皆が理解しづらい部分なのかな?と思って読んでいます。
 取り敢えず眠い(笑)ので、今日は寝ます(笑)


a.生活空間の組織化

自閉症の子どもたちは感覚的にも無防備であり、爆撃をうけたみたいな感覚的体験に苦しんでいると考えたくなる。もともと保持が困難なうえにこの爆撃体験が加わるのであるから、空想の中で(それゆえおそらく夢見ることで)経験を消化していくという通常の過程は、遊びにおいても、学習においても相当に効率が悪いものになってしまう。この結果、外的対象による世話だけでなく、外的対象の心の機能そのものに対して、尋常ならざる依存状態が生じることになる。 
 以上の見解は、知的障害のような性質を帯びている高い知能の子どもたちのことをよく説明していると思う。それは、ポスト自閉状態パーソナリティの性質を理解する上でも治療的アプローチを探っていく上でも重要な物を含んでいるから、おそらくこの点に関してもう少し詳細に吟味していく価値があるだろう。フロイトは思考を、経済的な形式での試行行為として考えた。私たちの内的能力が、ある問題に含まれている複雑な表象の取り扱いに対処できなくなると、計数器に頼ることになる。――たとえば、アバカス計算器や、チェス盤と駒や、紙と鉛筆と幾何学者の道具に、である。同じように子どもは、空想や思考の中の対象の計数器としておもちゃを用いる。その計数器が、表象として割り当てられた意味とまったくかけ離れて、それ独自の存在を主張し始めると、その遊びは具象的なものになってしまい、象徴形成の失敗が表われていると言えるだろう。
 ポスト自閉状態パーソナリティでは、あらゆる原始的な状態と同様、具象的な思考や空想が表現されるのはもちろんだが、これは、実際には大幅な未熟さから予想されるほどひどいものではない。それよりも、自我機能の遂行のために母親対象(もしくは母親転移の対象)を自己の延長として用いるということに関わる、より複雑な過程が認められるのである。

 〜一次ナルシシズムの意味合いでこのような依存を捉え、最早期においては関係を持つことと同一化することはまったく区別がないというフロイトの陳述を思い起こせば、自閉症の子どものパーソナリティ構造における対象と自己の二次元性の問題に引き戻されることになる。この点で、乳児のパーソナリティの混乱した部分を母親が引き受け、苦痛を取り除きそして子どもに戻すという過程として、母親のもの想い(reverie)を捉えるビオンの概念化は、問題をまとめあげ明確にしてくれるように思われる。けれども、自閉症の子どもにおいては、通常の母親の世話とはいくぶん異なった形式でそれが機能していることを認識する必要があるのかもしれない。第一に、自閉症の子どもでは、母親に対して、自分の苦痛を取り入れ、コンテインし、取り除いてもらう必要があるのは、自己の一部に留まらず、自己全体であるようだ。そしてこのような理由の他に、おそらく原初的依存の不全を起こす母親の心の状態の限定的な面がある。これを子どもは紙のように薄い母親あるいは乳房として体験するのだと思われる。