うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

平茶碗と、弦とピックと、【しかし、世阿弥の芸術論というより、彼の芸術の苦心は、この唯一の幽玄の花を、無限の変化をもった様々な体の中にいかに実現させるかにあったのである。】


 日中は暑かったですね!
ひーひー王子との散歩でも汗をかいたので、帰宅してから平茶碗でお薄を点て、お団子を頂きました。ちょっと気が早いですね(笑)

 受診と法務局の帰りに、楽器屋さんに寄って、アコースティックギターとエレキの弦を買ってきました。
アコースティックの方は、やはりアニーボールにしました。張り替えたら、やっぱりいい音でしたが、1ヶ月持つでしょうか?確かにほぼ毎日、時間の長短はありますが触っているので、一ケ月も持てば上等なのでしょうか?
 ピックはまだ、しっくりするのを探していて、ESPの黒いものが、指で挟む箇所が厚くて、弦に当たる箇所がミディアム位の硬さのものが今の所、良い感じですが、今日行った楽器屋さんには置いてませんでした....。
ネットで探しましょうか?(笑)似たような硬さのやつを三枚買ってきたので試してからですね!



 朝、親分を待つ間、マックで本を読んでいましたが、メルツァーを読んでいたら梅原猛さんの本が浮かんできたので、大分前に読んだ本を少しだけ読み返しました。

 下記は、自閉症のみならず、自分達では、障がいをお持ちの方々の支援にも当てはまる概念だと思われます。
芸術のところを支援に換えればそのまま現場に持って行ける言葉です。

『一般に芸術においては一つの崇高な理念が問題であるのではなくいかにその理念を感性的に個体的な人間の生命に実現していくかというところに、もっとも難しい芸術の問題がある。』


 こちらも上記と同じように感じました。

『この本道を怠るならば、能は弱く見劣りするというのである。』

 下記も同様ですが、役者も福祉職も、無作為が自然と表現できるようにならなければ、一人前ではないのでしょうね!非常に難しいことですが、頑張るしかないと思われます。

『つまり、体は主観的に役者が勝手に作り出すものではない。つまり、体は自然の中に客観的に存在する生命の様式だというのである。』

 『自閉症世界の探究』も受診待ちの時に読ませていただきましたので、次回は続きのアップです。

美と宗教の発見梅原猛 著作集3
第二部 美の問題
芸術論の中核―二曲三体論
 小林氏を初めとする多くの世阿弥芸術論の解釈者は、アリストテレス(前384―前322)がプラトンを非難した言葉を使えば、イデア論者の誤りをおかしているように思われる。つまり彼らは、能のイデア、能の本質が幽玄であることのみを大さわぎにさわぎたて、この幽玄を口をきわめて讃美するが、この幽玄がいかにして様々な体の中に実現されているということにほとんど関心を払わないのである。しかし、世阿弥の芸術論というより、彼の芸術の苦心は、この唯一の幽玄の花を、無限の変化をもった様々な体の中にいかに実現させるかにあったのである。一般に芸術においては一つの崇高な理念が問題であるのではなくいかにその理念を感性的に個体的な人間の生命に実現していくかというところに、もっとも難しい芸術の問題がある。われわれは、従来のように本体論から世阿弥の芸術論を見るべきではなく、様式論から芸術論を見るべきであろう。 
 もしも、以上のように、幽玄というな理念でもって世阿弥の芸術論と芸術を見ることが、あまりに狭い見方であるとしたならば、われわれは、いかなる理論を世阿弥の芸術論の中心と見なくてはならないのであろうかの答えは簡単である。先程、小林氏が引用した「舞歌幽玄を本風として三体相応の達人なり」という言葉をそのままとればよいのである。二曲のみではなく、二曲三体を世阿弥芸術の中心とみればよい。〜

〜ここで世阿弥は力強い言葉で二曲三体が能の稽古の本道であることを強調している。この文章は五節に分かれるが、①まず世阿弥は、「習道の入門は、二曲三体を過ぐるべからず」と強い言葉で断定し、②次に子供の時は三体を学ばせずにただ舞と歌によって、美しい姿、形の基礎を作り、③成人したら、老体、女体、軍体、すなわち老人の姿形、女性の姿形、男性の三つ以上体を学び、子供の時から習い覚えた舞と歌により、この様々な体を表現することが大切であるといい、④そして、すべての人間です体は結局この三つの体の応用によって可能であり、この応用が出来ないとしてもある基本の三体だけ極めた役者は、上等の仕手であるが、⑤この本道を怠るならば、能は弱く見劣りするというのである。

つまり、体は主観的に役者が勝手に作り出すものではない。つまり、体は自然の中に客観的に存在する生命の様式だというのである。女御・更衣・遊女・好色および花の類は客観的に「幽玄」の体、つまり後の女体として存在し、物のふ・荒夷・鬼・神・松・杉は、客観的に強き体つまり後の軍体、として存在しているのである。そしてその客観的に存在する幽玄の体、強き体をそのまま真似すれば、幽玄の能、強き能となるが、客観的に強みかるべき体を無理に幽玄にしようとすれば、その能は弱くなり、逆に幽玄であるべき体を強くすれば、その能は荒くなるというのである。
 この『風姿花伝』の文章では、世阿弥はまだ三体の区別に達していず、むしろ、幽玄と強さ、後の女体と軍体の区別を主張しているに過ぎないが、私は世阿弥の体というものはこの文章にあらわれたように、客観的な自然の生命の様式を示すものであり、したがって二曲三体とは、このように客観的に自然に存在する生命の様式に三つの様式があり、それを、舞歌によって表現するのが能の根本であると主張する理論ではないかと思うのである。つまり世阿弥の二曲三体論の洞察の深さは、人体の物真似の様式が、客観的な自然の様式に基礎づけられていることを発見した点にあるのではないかと思う。〜