陶人形展と、ねこさんと、【なぜ「時代精神の病」は「自閉症スペクトラム障害」となったのか?】(発達の非定型化と心理療法より)
先日、神戸館さんに行った時、陶人形展をしていました。
作家さんのお名前を忘れてしまったので、次回行かせて頂いたときに、書いてきます。
4月の中旬くらいまでされているようです。
今日は、休みでしたが、昨夜からパソコンの具合が悪く、メールなどが開けなかったので、直ぐに業者さんに来て頂き、直して頂きましたきちんと復旧して頂けたので。助かりました!
直ぐにメールチェックしてから、4月までに提出しないといけない書類をやらせて頂きました。
4月の常勤換算も、もうやっておかなければいけないのでやりましたが、これが一番苦手です(笑)いつも頭が腐ります......。
相変わらずねこさんは、寝てばかり.....。羨ましい....。
復旧を待つ間、本を読ませて頂いていました。
ノースカロライナに行った時にしきりに『on going』という言葉が出て来ていました。
病気や病態が時代の流れに沿っているのなら大文字での『on going』をきちんと頭に入れてから支援方法を考える必要がありそうですね。
『つまるところ、「発達障害」が「今世紀の初頭を代表する障害となっている」今日において、心理療法家は、その臨床実践に当たっては、カナー型自閉症からアスペルガー障害までに至る「自閉症スペクトラム」ではなく、先にも述べた「定型発達」から「非定型発達」までに至る「発達スペクトラム」の中に自らのクライエントをまずもって位置づける必要に迫られていると言えるだろう。』
下記は、自宅のパソコンの不具合を、イトウ通信さんに直して頂いている時に打ち込んでいた箇所です。
第7章・第8章は総括している感があり、そちらのアップでも良かったのかも知れませんが、順番にアップさせて頂きました。この章の終わりの方にも、なるほどと唸ってしまう、時代についての考察がありますので、次回にアップさせて頂きます。
第6章 発達障害の広がりとその心理療法 ―「グレイゾーン」の細やかな識別と「発達の非定型化」という視点
1,時代精神の病の変遷と心理療法における焦点のシフト
(1)ヒステリーによる精神分析の創造と境界例(人格障害)によるその改訂
〜カーンバーグ(Kernberg,O.)によれば、これら境界例は、特異な「人格」の表出型として捉えられるべきものであり、このような主張は、従来の精神分析がその診断や治療において捉えていた焦点を、「症状」から「人格」に移すことを意味していた。このように表面的で当てにならない「症状」から、その背後にある「人格」へという焦点のシフトは、当時のアメリカ精神医学にも受け入れられ、この「人格構造論」に基づいて、それまで「境界例」と呼ばれていた症例は再編成され、病態水準ごとにクラスター化された「人格障害」(現在わが国では「パーソナリティ障害」の訳語が用いられている)として1980年に刊行されたDSM - Ⅲに記載されるに至ったのは周知のことである。
2,「発達障害」は心理療法をどう変えたのか?
〜ただ、いずれにしても、冒頭でふれたように、「精神の病」がその時代時代の社会や文化の中で形成されるものであるとすると、「自閉症スペクトラム」障害の有病率の上昇の背景には、一定の時代的・社会的・文化的な要因が存在することを想定するのがより自然であるように思われる。
本節では、それについて述べる前段階として、前節の末尾で述べたように、(1)なぜ「時代精神の病」は、「解離」系列と「発達」系列という垣根を飛び越え、「自閉症スペクトラム障害」となったのか、そして、それに伴い、(2)なぜ心理療法の焦点が「発達」にシフトしたのか、について考えてみたい。
(1)なぜ「時代精神の病」は「自閉症スペクトラム障害」となったのか?
〜19世紀末に分岐した「精神の病」をめぐる「無意識」をブラックボックスとした「解離」系列と「脳」をブラックボックスとした「発達障害」系列という2つの潮流は、1枚のコイン、表裏として、それぞれのやり方でふれたように心理療法という「精神の病」の意味を探究するための新たな道具を無効化した。すなわち、前者では、前節において述べたようになるヒステリー、境界例(人格障害)そして多重人格へという変遷に示される「人格の多重化(パーソナリティがたくさん)」によって、そして、「多重人格運動」に代表されるような問題の「外への広がり」によって、他方で、後者では、従来的な意味での(あるいは、定型発達ベースで考えていた)「人格」が想定しえないという意味での「人格の無化(パーソナリティがない」によって、そして、その「脳の機能障害という病因理解を背景とした「治療」から「療育」へという方向転換によって、精神分析だけでなく、心理療法それ自体が無効化されたのである。〜
(2)なぜ心理療法の焦点は「発達」にシフトしたのか?
〜だからこそ、青木省三らは、ある患者を見立てたり治療したりするに当たっては、まず「定型発達」から「非定型発達」までに至る「発達スペクトラム」とでも言うべきものを想定し、カナー型自閉症とまで極端な「非定型」性でなくとも、その患者が「非定型発達」よりの特徴を持っている場合、すなわち、「灰色の発達障害」であることが想定できる場合には、彼らが「定型発達者」の呈する様々な典型的な病態の「非定型的病像」を呈しやすいことを端から織り込むべきであることを主張したように思える。〜
〜つまるところ、「発達障害」が「今世紀の初頭を代表する障害となっている」今日において、心理療法家は、その臨床実践に当たっては、カナー型自閉症からアスペルガー障害までに至る「自閉症スペクトラム」ではなく、先にも述べた「定型発達」から「非定型発達」までに至る「発達スペクトラム」の中に自らのクライエントをまずもって位置づける必要に迫られていると言えるだろう。
このことは、精神医療それ自体の志向性の変化とも関わりがあるように思われる。精神を病む者が鎖につながれていたピネルの(Pinel,P.)以前の時代と比較はせずとも、「広汎性発達障害」について論じた著書の中で、精神科医の広沢正孝が述べるように、21世紀に入った今日の精神医療がその場を「入院病棟中心から外来、さらには社会場面へと移行するにつれ」、さらには、診察室の中で語られたり観察されたりする「症状」ではなく、「社会生活場面でみられる患者の認知・行動特性を把握する必要」から、より具体的な「精神行動特性」に注目が集まるようになった。このような状況において、古典的な精神病理学で重視されたいわゆる「病前性格論」などは徐々にc口端に上がらなくなり、個々の患者が持つそのような「精神行動特性」を理解するために必要不可欠な情報と考えられているのはやはり、彼らの「(精神)発達」のあり方、あるいは、その歩みなのである。