うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

早一年と、さくらんぼの花と、【発達障害の特徴―主体の欠如と、主体の欠如から見た発達障害】(発達障害への心理療法的アプローチより)


 みーちゃんが亡くなって、早一年。
なんやかんやと、以前はみなさん言ってくれていましたが、命日を知っている方は何人いるでしょうか?
 

 絵の才能にも恵まれていたので、本当に残念でした.....。



 夜勤明けで帰宅したら、さくらんぼの花が満開でした!
しかし、咲く前の枝の力強さの方が好きです。パワーを頂ける気がします。
 染織に使う枝も開花前の枝ですし、パワーがあるのでしょうね!




『主体』と言うのをもう一回復習するために、『発達障害への心理療法的アプローチ』河合俊雄編に少しだけ戻ってみました。一番分かり易かった箇所のアップです。

『それは主体がないからこそ、何か決まった物や、何か決まった行動が主体の代わりをせざるをえないのである。』なんですね.....。そこから支援を考えて行っていますが、そこまで行くのが案外と大変かもしれません。
気付きを得ようとする職員が少ないのでしょうか?職員の方が、心に蓋をしてしまっている場面にも出くわす時があります.....。
 もう少し事務仕事をやり、レンターカーを返して、新しい(中古ですが....)送迎車を頂いてきます。



発達障害への心理療法的アプローチ』河合俊雄編

第一部発達障害心理療法
五 発達障害の特徴―主体の欠如
発達障害の一般的な特徴としては、「心の理論」がないという指摘や、実験結果がよく示されている。「心の理論」とは、他者が自分とは違うこころを持っているということで、それが認識できないというのである。これは確かに発達障害のある重要な局面を捉えているかもしれない。しかし本当にそれが本質的なものなのかは問い直す必要がある。たとえば人と物の区別がない、あるいは人でなくて物に興味をもつという発達障害の特徴と、「心の理論」とどちらを本質とみなせばよいのであろうか。それに他者と自分とは違うこころをもつというのには、あまりにも多くのことが前提になっているように思われる。たとえば自分の存在、他者の存在、こころという存在など。幾何学の公理が可能な限り単純なものから出発するように、もう少し単純な前提を問題にしたほうがよいように思われるのである。さらには、「心の理論」の欠如ということが、治療的に有効なのかどうかという点に関しても、疑問がつくかもしれない。もっとも最近の研究では、発達障害であっても、「心の理論」の課題をクリアできる子どもたちがいたり、またクリアできるようになっていく子どもたちもいることが指摘されていて、これが絶対の基準であるという考え方ではなくなってきているようである。
「心の理論」に関しては、他者のこころの理解が問題になった。それよりも発達障害の中核的な特徴として、むしろ自分の主体のなさを取り上げたほうがよいのではなかろうか。そもそも主体が成立していないから、他者の存在や他者のこころが理解できないのではなかろうか。そこで、発達障害の中核的な特徴を「主体のなさ」や「主体の欠如」(lack of subject )として見ることができるかどうかを検討してみたい。
 カナーが、自閉症の子どもが自分のことを「私(I)」と言わずに「あなた(you )」と言うなどの、代名詞の転倒として指摘した事態は、主語を必ずしも明示しない日本語の特殊性のために日本ではあまり見られないかもしれない。その代わりに、軽症を含めて発達障害の子どもは、自分のことを「私」や「ぼく」と言わず、自分の名前で「Aちゃん」と呼ぶことが多い。Aちゃんと呼ぶのは、相手に呼ばれるままの言葉で自分を呼んでいるとも考えられるし、またBちゃん、Cちゃん、他のさまざまなものと並んで自分が存在していることでもある。そこで「私」ということが言えるためにら、A、B、Cと並んでいた具体的な存在とは別次元に立つ必要があり、「私」という視点を確立する必要がある。また「私」というのは、自分だけを指す言葉でありながら、Bちゃんも、Cちゃんも誰もが「私」と言える、実体のないものである。したがって「私」あるいは「ぼく」と言えるためには、Aちゃんという実体を否定する必要があり、それが主体の成立であると考えられる。
 ヘーゲルの思想を自らの心理学に取り入れたユング派のギーゲリッヒ(Giegerich,W.)においては重要であるけれども、もともとユング心理学においては、「主体」という概念はなく、これまでユング心理学のコンテクストでは、発達障害に関しては「自己」という概念が重視されてきた。ユングは意識の中心としての自我と、こころ全体として指摘中心を示す自己を区別している。たとえばユング派の中で真っ先に子どもの治療に関わったフォーダム(Fordham,M.)は、自閉症に関して、自己という概念から検討している。また山中が、自閉症の子どもが特定の物を手放さないことに着目して、それを内的な自己と区別して「外なる自己」と呼んでいる。つまり基盤となるような自己が問題になっているというのである。
 「自己」という用語は、何かそういう実体がこころの中にあるかのような印象を与えてしまいがちである。それに対して主体は、「Aちゃん」という具体的なものから、「私」という存在しない次元への飛躍であるように、実体ではない。また主体(subject )というのは、客体(object )との関係にあるように、常に他者との関係で成立する。それは自他の区別と関わっている。さらに、主体(subject )が英語をはじめ、さまざまなヨーロッパ言語で「主語」を意味して、「私」と言えることと関わっているように、主体は言語と密接な関係にある。〜


六 主体の欠如から見た発達障害
 発達障害の中核的な特徴として、主体のなさを取り上げたのは、そこからさまざまな特徴を捉えることができると考えたからである。すでにカナーが最初に指摘したように、自閉的な子どもは、特定の物に常にこだわったり、同一態の保持ということが言われるように、決まった同じ行動を執拗にくり返したりする。それはコーラの瓶を手放さなかった山中のクライエントのようであったりする。それは主体がないからこそ、何か決まった物や、何か決まった行動が主体の代わりをせざるをえないのである。 もうすこし軽症の発達障害において、ある種のこだわりや収集癖が見られる場合にも、その集められている「物」に主体があると思われる。外の決まった物や動きで定点を作り出すのである。だからそれらの物がなくなったり、決まった動きをやめさせられたりすると、自分の定点をなくすのでパニックをおこすことになる。あるいは伊藤が指摘している自閉症児における「見ること」も、辛うじて定点を保とうとする試みと考えられる。伊藤は、自閉症児が、何かを並べたのを「見る」ことによって、「混沌とした世界をなんとか把握しようとしている」と指摘している。
 逆に言うと、本来の主体は、自分の名前を主語にしていたのが、それを言わば捨てて「私」と言えるように、そのような目に見える定点を必要としなくなったり、それを否定したりするところに生じてくる。山中のクライエントも、セラピーを通じて安心感を得て、よくなってくるとコーラの瓶を手放せるようになる。その意味で主体は、不在、否定、隙間と関わっている。たとえば人見知りは、母親でないこと、母親がいないこと、さらには母親でない人を拒否することが大切である。主体があるから拒否できる、拒否できるから主体が出来るという関係にある。さらにはメラニー・クライン(Klein,M.)の提唱した抑うつ態勢というのは、母親というのを喪失してしまうことで、母親という全体対象がこころの中にできることであるが、それによって主体ができると考えられる。ここにも喪失が関わっているのである。