うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

本を借りましたと、タンポポとねこさんと、【犬は人に「戦略的なウソ」をつく、実験で証明】と【定型発達の非定型化/非定型発達の定型化――「モード」としての「発達障害」】


夜勤前に、借りていた本を返しに行ったら、木村敏先生の本が、新刊のコーナーにあったので迷わず借りてしまいました。新装版ですね。 ジャック・デリダのは、購入しようかどうか迷っていたものです。
 すきを見て(笑)読ませて頂きます!後のはついでに(笑)借りてしまいました。 
 今日も大分事務仕事が出来、会計事務所さんから1月までの法人の会計が出たとの報告を受けました。
まあ、赤字ではなくて(現在の所は...)良かったです!


 今日はお昼前から暖かかったですね!
車も花粉が入るので窓を閉め切ると、クーラーが要りました。
 ねこさんも外で寝ていました。

 事務所に用事で寄ったら、洗濯ものが大量に干してあって、日中入っている職員さんが大変そうだったので洗濯ものだけ手伝ってきましたが、もうすぐ夜勤に入る時間が来ますので(笑)今度は本格的に?出勤してきます!

 事務仕事の合間にネットのニュースを開いたら、面白いニュースがありました。
記事元はこちらです↓
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170316-00010001-nknatiogeo-sctch

 ねこさんは、ご飯や水が欲しかったら、必ずおっちゃんの所にきます(笑)



【犬は人に「戦略的なウソ」をつく、実験で証明】
ナショナル ジオグラフィック日本版 3/16(木) 7:30配信
自分のごほうびが最大になるように人をだますこともできる
 イヌは経験を通じて学習し、戦略的にウソをつくことができるという論文が、学術サイト『Animal Cognition』に発表された。

 スイス、チューリッヒ大学の研究者マリアン・ヘバーライン氏は、自分の飼いイヌたちがとる奇妙な行動に興味をもった。1匹がもう1匹の注意をそらし、その隙に相手の寝床を奪おうとしたのだ。これを見たヘバーライン氏は、イヌは人間に対してもこうした狡猾な行動をとるのだろうかと考えた。
利益が最大になる戦略を選ぶ
 論文に記載された実験は以下のようなものだ。

 イヌは見知らぬ2人の人間とパートナーとなる。2人のうち1人はごほうびをくれる「協力的」な人物、もう1人はイヌにごほうびを見せた後、そのまま自分でキープしてしまう「非協力的」な人物だ。

 次に、パートナーの人間をごほうびの入った箱に連れて行くよう、イヌに教える。イヌが人間を箱まで連れて行くと、協力的な人物はイヌにごほうびを与えるが、非協力的な人物は与えない。

 こうした段階を踏んだ後、イヌの前に3つの箱を提示する。1つ目の箱にはおいしいソーセージが、2つ目の箱にはソーセージほど好物でないビスケットが入っており、3つ目の箱には何も入っていない。イヌはまずこの3つの箱のどれかに、2人のパートナーのうち1人を連れていくよう命じられる。ただしこの作業の後、イヌは自分の飼い主を箱のそばへ連れていくことができる。飼い主は残ったごほうびをすべてくれる設定だ。

 2人のパートナーのうち1人をごほうびの入った箱へと導くよう命じられたとき、イヌは「非協力的」な人物をいちばんおいしいソーセージの入った箱へは連れていかず、たいていは何も入っていない箱へと導いた。これはつまり、自分がすべてのごほうびをもらえる唯一の方法は、「非協力的人物」をわざと空の箱へ導くことだと、イヌが理解していたことを意味する。
明らかになるイヌの認知能力
 イヌの認知能力を評価する研究は、近年数を増している。その中にはたとえば、イヌは推理ができるという研究もある。チェイサーという名のボーダーコリーは、特定の物体を複数、識別できる能力を持っていた。そこで、識別できる物体を山積みにした中に、知らないおもちゃを1つ紛れ込ませておき、それを取ってこいと指示した。

 するとチェイサーはそのおもちゃを表す言葉を知らなかったにも関わらず、正しい物を取ってくることができた。つまりチェイサーは、取ってくるべきなのは自分がそれまで見たことのないおもちゃであると推測したわけだ。

 このほか、イヌが非協力的な人間を避けることを証明した研究もある。そうした行動は、人間の幼児やオマキザルにも見られるものだ。実験では、まずイヌの飼い主が他の人に作業を手伝ってほしいと頼むが、その中には協力してくれる人もいれば、してくれない人もいる。部屋の中にはその他、常に中立的な観察者も存在する。この中立者と非協力者の両方からごほうびを差し出されたとき、イヌは中立者を選ぶことが多く、これは飼い主に対する親愛や忠誠の表れと見ることができる。

 イヌの“知性”に興味を持つ人の中には、単にイヌが人間に似ていると思いたい人もいれば、あるいは自分のお気に入りの犬種が最も頭がいいと自慢したいという人もいるだろう。しかし米デューク大学犬類認知センターのブライアン・ヘア氏によれば、犬種間で知性の明白な違いはないそうだ。

 それでも今回の研究は、もしあなたが飼いイヌにごほうびをあげるのを渋ったときには、イヌが目当てのものを手に入れるため、新たな方法を編み出すかもしれないという可能性を示唆している。
文=Delaney Chambers/訳=北村京子





 周囲を見渡しても、学歴や職業・家柄にこだわって、その位置にいないと見下したりして、自分がそうでなくても、身内がそうだったら同一化して自慢げに話したり......。
 自分の継母は、自分が大きい選択をしないといけないときには、それが周囲が反対するような状況でも、応援してくれました。本当に大事なことは『生き様』だと教えてくれました。
 地元では、自分は家柄は悪くはなく(おやじは財産を食いつぶしましたがw)、逆に祖父のお蔭で親戚筋は良い職業に就いていましたが、自分はそれを嫌って大阪を出ました。それで本当に良かったと思っています。小金を持っていた時に、やっと親戚づきあいできるなと言った従弟は祖母に歯科医院開院時のお金を出して(億単位の)貰っていましたし(笑)そんな生き方はクソくらえと(笑)思っていましたので、貧乏になった途端、電話しても「どちらさんでしたか?」って言われても(笑)大きなショックはありませんでした(笑)

 早くても遅くても、人間にはその人にとっての時期があると思いますし、障がいがあろうがなかろうが、素敵な『生き様』はあります。

 下記の文章は、そんなことを思いださせてくれました。
4月に継母に会いに行けるので、昔話と感謝の気持ちを沢山話せたらと思っています。



『その意味では、現代の日本においては、巷にいる普通の人たちも患者たちもともに、神経症的であることではなく、発達障害的であることを選ぶようになった(「発達障害」が今日の「モード」になった)。このような文脈においても、「発達障害」こそが、この「時代精神の病」であり、現代の意識のカリカチュアであると言えるのだろう。』 ここまで言われると、発達障害というのは、人為的なので人為的に治る可能性もあるということでしょうか?もちろん、器質的に問題がない場合ですが。



4,現代における「発達の非定型化」
(1)子どもの発達の基底的な変化〜先に引用したのと同じ論文で滝川は、「精神発達は、時代や社会、文化をこえた普遍性はもたない。時代や社会、文化が変われば発達のありかたもかわる。したがって絶対不変の発達理論はありえず、発達論はそれが生み出された時代と社会の関数として読み解きながら活用する必要がある」〜

〜先にふれたエリクソンが想定したライフサイクル8段階それぞれの「発達課題」にしても、それはあくまでも、彼が生きた時代・社会・文化という文脈の中で妥当性を保証されるものであり、「発達の非定型化」についてはこの後述べるが、少なくともわが国では、このようなエリクソンの掲げたライフサイクルに沿って「発達課題」をクリアして生きる者が大多数とは言いにくい現状が生じている。 そして、このことは、前節でその後のあらゆる発達の基盤として挙げた生後9か月頃の時期であっても変わらないがないように思う。直接的にこれを裏づけるものではないが、3年ほど前、「転んで顔にケガをする子どもが増えている」というトピックがある報道番組の中で紹介されていた。大まかに言えば、転んだ際に自分の体を腕で支えて、顔を地面にぶつけることを避けられない子どもが増えていて、それは子どもの腕の力の低下に起因する、というのである。〜

〜また、親たちが生きている社会・文化・時代が、「ハイハイ」することではなく、早く立ったり歩いたりすることがわが子の優秀さや発達の早さの証であると、それに過大な価値を置くのだとすれば、それもまた、子どもの発達に影響を与えることだろうし、実際にもそのようなことが起こっているように思われる。



(2)発達の順序や段階の乱れ
〜これらの「発達の順序や段階の乱れ」において顕著な特徴の一つは、「知覚(知性)の優位」、もしくは「感覚(本能)の優位」、もしくは「感覚(本能)」の抑制」であろう。従来の様々な発達理論が示すように、通常の発達においては、「感覚(sensation)」の発達は、「知覚(perception)」の発達に先行する。なぜなら、「感覚」は、環境に適応するために感覚器官を経て外界や身体内部に関する情報を受容するプロセスとして、個体や種の保存の本能とより深く関わるものであり、それに対して、「知覚」は、そのような単純な感覚刺激を受容する「感覚」よりも高次の情報処理プロセスであって、そこでは、感覚器官から得た単純な情報にそれまでの経験(学習や知識)による加工がなされる、いわば知的なプロセスであるからだ。〜




(3)定型発達の非定型化/非定型発達の定型化――「モード」としての「発達障害
〜そうであるとすれば、この「グレイゾーン」をいかに細やかに識別していくかは、これからの心理療法において重要な課題となるだろう。そして、その際のメルクマークとなるのが、前項で述べた「知覚(知性)の優位性」「感覚(本能)の抑制」であり、「グレイゾーン」の事例における、「発達障害」性の強い極とは異なる、本能的世界とのつながりや感覚刺激への感受性は通常レベルであるにもかかわらず、それをことさら抑制しようとする傾向であるように思われる。
 この「通常レベル」の感覚体験にすら抑制をかけようとする、あるいはないことにしようとするという点では、西牧論文で取り上げられている青年期女子の事例は特筆に値する。〜

このことと関連して述べれば、現代の日本の普通の人たち、特に若い世代の人たちは、発達障害的なライフスタイルを選択する傾向があるように思える。第8章の畑中論文でも論じられているように、彼らは、自身の生活の中で、主体的であること、能動的であることを望まず、先の見込みなく、その場その場を刹那的に生き、様々な課題・出来事を秩序なく並列的に放置し、あらゆることを決定せずそのままにしておく。そしてこれに伴い、エリクソンの心理社会的発達理論では、青年前期の「発達課題」とされていた職業選択や配偶者の選択は以前よりも大幅に先延ばしされ、選択しない事を選択する者も目につくようになった。これは彼らのライフスタイルであり、精神病理でも心理学的な問題でもない。
 他方、1960〜70年代には、対人恐怖と呼ばれる神経症に悩む多くの患者がいた。彼らは、西洋的な個人主義に自身を適合させようとするがそれを本当に叶えることはできないという「自己との不一致」に苦しんでいた。こういう彼らの訴えは、他でもない彼らの「自己関係」や「自己意識」に関わるものであり、その意味で極めて神経症的であったが、今や普通の患者たちは、そのような悩み方は選ばない。それは流行りの「モード」ではないからだ。
 その意味では、現代の日本においては、巷にいる普通の人たちも患者たちもともに、神経症的であることではなく、発達障害的であることを選ぶようになった(「発達障害」が今日の「モード」になった)。このような文脈においても、「発達障害」こそが、この「時代精神の病」であり、現代の意識のカリカチュアであると言えるのだろう。