うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

借りた本と買った本と、あたり前田のクラッカー(笑)と、【第1章 発達障害の増加と発達の「非定型化」 河合俊雄】(発達の非定定型化と心理療法より)


 昨日、図書館から予約していた本が届いたと連絡があり、一気に読んだ『セーラー服の歌人・鳥居』

『心とは どこにあるかも知らぬまま 名前をもらう「心的外傷」』

『眠ることは死ぬことだから心臓を押さえて白い薬飲み干す』

 を手首の傷を眺めながら何度も読み返していました。
この本の感想は書けそうにありません.....。


 買った本『精神分析自閉症フロイトからヴィトゲンシュタインへ』(竹中 均著)は、昨夜来ていたようです。今日、親分のお伴で行った浜松で待ち時間にちらっと読ませて頂きました。現在読んでいる『発達の非定定型化と心理療法』に関連していることもあり(今年は自閉症スペクトラム発達障害の勉強が主になりそうですが)瞬間ですが(笑)真剣に読んでいました。

 


 重くなっているので(笑)関西人にはなじみ深いクラッカーです!
なんで浜松で売っているのでしょうか?
 クラッカーは買いませんでしたが(笑)



 朝、ひーひー王子との散歩中、目に入ったものを頂き、何も考えずに(笑)玄関に入れました。




 下記は2〜3日前に読んでいた所のアップです。
最近は、自閉症統合失調症というはっきりした障害名の方は少なくなったと、この地域でもよく耳にするようになりましたが、その原因が書いてありました。4項の方がもっと入り込んだ内容になっていましたが、順番にアップして行かせて頂きます。




『発達の非定定型化と心理療法』河合俊雄・田中康裕著
第1章 発達障害の増加と発達の「非定型化」 河合俊雄
1,発達障害の増加
〜また発達障害が身体的な障害とされることによって、心理療法は有効でないと考えられてきたが、筆者たちは、発達障害の中核的な問題を「主体の欠如」や「主体の弱さ」として捉え、主体の存在を前提にした従来の心理療法ではなくて、その前提となる主体を発生させるような心理療法を提唱してきた。つまり発達障害心理療法が有効でないとされてきたのは、自分から表出できたり、自分を内省したりという自己関係を持つ主体を前提とした心理療法を適用しようとしたからであって、アプローチの仕方を変えることによって、治療関係やイメージ表現における分離などによって、主体が生まれてくることがあり、発達障害には心理療法が有効な場合もあることを示してきた。主体が成立してくるためには、融合からの「分離」と、本人やイメージが垂直に上がったり、発生したりする「発生」が重要な契機であることが確かめられてきた。



2,発達障害の診断偏重
 〜まだ発達障害の見方がそれほど浸透していなかった2000年頃には、認知の歪みによって妄想的なことを言ったり、感覚過敏によって幻覚とも受け取れることを言ったりしているだけなのに、統合失調症と誤診され、長年薬漬けになっていたような発達障害をベースにしていると考えられる人も多くみられた。そのような人に対しては、発達障害という見立てをもって心理療法を続けていくと、妄想なども消失してしまうことがある。〜

〜しかし発達障害の人に対しては、個人的な質問にも正直に答えて、セラピストの主体性や生身の存在をはっきりと示すほうが治療的であることが多く、またそれによって境界例におけるような距離を失ってしまって混乱に至るリスクも少ない。そのようにセラピストがいわばストレートに接することで、かなり病態が重いと考えられていたクライエントが安定したり、主体が生まれてきたりする例が認められた。〜



3,症状と意識の変化と発達障害
 このような発達の「非定型化」が頻発している要因としては、意識の変化や社会環境の影響が大きいように思われる。既に前著で述べたように、日本における心理療法で出逢う主たる症状は、1970年頃までの対人恐怖、1970年代、1980年代の境界例、90年代の解離性障害、そして2000年以降の発達障害というように変遷してきている。これらの症状を比べてみると、対人恐怖においては、近所の人に噂されているように思う、後ろのクラスメイトに見られているように思って怖いなどのように、自意識が他者に投影される形での主体性が問題になっていた。それに対して後の解離性障害では主体は解離した別々のあり方になってしまっていて、もはや統一的な主体とは言えず、さらに発達障害においては主体のなさが目立つ。このように対人恐怖を通じて顕在化した主体を確立するという課題は、その後達成されたというよりは、ますます曖昧になり、難しくなってきているように思われるのである。
 このように心理療法の現場で認められた変化を、もう少し精神病理学の視点から見てみると、精神病理は統合失調症を中心としたものから、発達障害自閉症スペクトラム障害に移ってきているとする興味深い論がいくつか見られる。内海健は、「統合失調症の精神病理は、近代的な主体に内包されたものであるのに対して、自閉症は、そうした主体そのものがもはや自明の前提ならないことを示している」としている。統合失調症の人が他者に翻弄されているのに対して、自閉症では視線が合わなかっらち、「ひとみしり」がなかったりすることからわかるように、他者が不在であるという。このように統合失調症自閉症の対比を、近代主体のあり方と、それに伴う他者との関係で捉えているのが興味深いと。そして統合失調症が近代主体の枠組みで理解可能であるのに対して、自閉症にはもはやそれが通用しないとされているのである。
 内海はさらに、哲学的な表現で、両方の病理における他者のあり方につて考察する。近代が「衰滅しつつある超越論的他者が、人々の投射によって生きながらえていた時代である」とするならば、統合失調症は「他者の死を否認する近代の欺瞞に対する告発」であり、それに対して自閉症は「他者の不在をその行為によって示している」ことになる。つまり統合失調症が近代精神医学で問題にされてきたのよりも、はるか後の1943年に自閉症が初めて提唱されたのも、近代主体が次第に自明ではなくなり、それと必然的に呼応して他者が存在しなくなっていったプロセスと関係していると考えられるのである。〜

このように精神医学における中心的な病理が統合失調症から発達障害に移っているのは、近代主体というあり方が社会で期待されるモデルではなくなってきていることが関係していると思われる。近代主体は、共同体からの圧力に打ち勝って、それからの個の自立を特徴としている。それは必然的に家族、大家族、共同体などの自分をこれまで包んできたものを自分と対立する他者にし、また自意識の中で自分に対立し、自分を脅かすものとして想像する。そのような課題が近年において成立しなくなってきていると考えられるのである。それに伴って、他者や主体が存在しない、あるいは少なくとも他者や主体の存在が弱い構造を持っている発達障害が増えることになっているのだろう。