うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

本当に読みたい本が来た!と、ギターの弦とピックと、【4,社会環境の緩みと発達の「非定型化」】


 昨日、本が来ていたようで、朝事務所に行ったらありました。
本当に読みたかった本だったので、楽しみです。
本当は、タスティンがもう一冊欲しかったのですが、予算オーバーでしたので、次回購入させて頂きます。
 豊橋にでてお昼になったので、コンビニの駐車場で昼食を摂りながら、少しだけ読みました(笑)


 月曜日にある、担当者会議の資料を作成してから豊橋に出たついでに、ギターの弦とピックを買ってきました。
アコースティックの弦は、ダダリオだと思って買ってきたら、エレキ弦と同じアニーボールでした(笑)
初めて使うので、それはそれで楽しみです。


 ピックはまた悩みだして(笑)素材とメーカーを少し変えて買いました。
結局はフェンダーの白ピックに戻るのでしょうか?今はESPの水色ピックがしっくりきます。

 今日は、これから夜勤なので明日帰宅したら弦を張り替えます。
明後日は、もうカーグとバンドクラブの日です!
本当に日が過ぎて行くのが早いですね!



 アップは、昨夜の予告通りです。
時代の流れで病気や障害も変わって行くんですね。木村敏先生も大分前から、重度の統合失調症の患者さんを見かけなくなってきたと本に書かれていました。
ある場面では、時代を遡ったやり方のほうが良い事もあるのでしょうか?


4,社会環境の緩みと発達の「非定型化」
 統合失調症自閉症は、どちらも脳中枢神経系の問題に基づくと考えられている精神病理である。統合失調症に関しては、向精神薬の導入によって、画期的に治療が進んだことが知られている。しかし前節で紹介した論のように、発達障害の増加に近年における意識のあり方の変化が関わっているとすると、それに関係していると見なされる社会環境の要因を考慮したほうがよいように思われるのである。
 さらには、たとえ発達障害に生物学的な基礎があるとしても、社会環境の変動に基づく意識の変化によって、発達障害的なあり方が生み出されやすくなっていると考えられる。本書において、発達の「非定型化」という視点を持ちだすのはそのためである。また前節の議論によると、近代主体や個の確立が自明の発達課題でなくなったことが、発達の「非定型化」を生み出していると言えよう。
 そのように発達障害とされる事例が増えるのは、従来は社会構造や生き方が定型的であったために主体性の弱さが目立たなかったのに、それが緩んでくるに伴って、主体性の弱い人が定型的な発達からずれやすくなっていることによると考えられる。社会構造や社会規範が比較的強固に存在している伝統的な社会においては、人々はあまり主体性を発揮するよう求められる必要がなかったと思われる。それは例えば職業選択や結婚相手の選択などにおいて顕著で、個人ではなくて家族や共同体の意向によって選択がなされることが多かった。例えば親と同じ職業を継いだり、結婚も周囲がアレンジしてくれたお見合いによって行ったりするなどのようにである。また家族をはじめとする集団内で何をすべきかは様々な儀式や習慣などを拠り所として、比較的決まっているのが通例であった。
 これに対して近代社会においては、それまでの伝統的な社会規範や社会構造と戦って個人を確立するのが近代人の生き方であって、その過程で葛藤に陥るからこそ、様々な心理的症状が生まれてくる。例えばフロイトFreud,S.)が注目したヒステリーは、ヴィクトリア朝と言われる道徳主義的な考え方が支配的であった社会において、性が抑圧されているときに、個人が性的な欲望を持とうとすることによる葛藤が生み出すものであった。対人恐怖は、共同体がまとまりを持っているときに、そこから離れて個人が自立しようとすると、共同体の人たちが怖いもののように思われる症状であった。しかし様々な社会調査が示しているように、世代間の差が小さくなって世代間の葛藤がなくなり、親や上の世代に対して自分を主張する必要はなくなってきた。また行うべきことや生き方のルールが徹底されていない現代では、固定した社会構造や社会的要請に対しての葛藤が生じにくい。例えば不登校への対応としては必ずしも登校を目指すのではなくて、別室登校、フリースクールなどの様々な選択肢が可能になっている状況では、固定した社会構造や要請との間の葛藤が生じにくい。これは社会があまり強制的でなくなり、個人の自由度が増しているという意味では喜ぶべきことである。しかしながら定型的な行動や発達が社会的に強制されないために、定型的な発達からずれた非定型的な発達の問題を抱えた人が増えてきているとも考えられるのである。
 

 例えば藤巻の事例におけるクライエント男子の父親は、「父親役割が取れずに、未だに“息子”の立ち位置にとどまっている」とされている。それに対して母親は「この状況を諦めていて、話し合うことも喧嘩することもすることもほとんどしない」という。まさに父親の権威や親子の間の世代間差異が消滅し、しかも1960年代、1970年代に日本で不登校が問題になったときのように、母親が夫の関わらなさや存在感のなさに不満をぶつけ、改善を迫ったような家族の中でのぶつかり合いもない。クライエントの男子は極端な偏食であるけれども、メニューは彼の言いなりである。ここにも、何を食べるべきかというルールを示そうという動きがない。このような構造のなさが、発達障害的なあり方を助長して、発達の非定型化を引き起こしていると考えられる。ここには中心統合的なこころの構造を作り出そうとする力が感じられない。