うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

さくらんぼの花と、『Arréterには「注意を向ける、気にかける」の意味もある。無条件の許しは、諦めや見捨てられたと変わらない。A君には、ダメなことはしっかりと“禁止”されると同時に、“気にかけられ/受けとめられる”体験が大切であったと思われる。』(発達の非定型化と心理療法より)


自宅の周囲では、さくらんぼの花が咲いていますが、手入れされていない木は、まだ開花前でした。
きっと明日には開いているでしょう!
 3月は、東日本大震災やうたたねでも去年悲しいことがあったので、さくらんぼの花を見るのがしんどかったのですが、前を見ないと何も始まらないと思い、先ほど、ひーひー王子との散歩時に頂いてきました。
 開花したらアップさせていただきます。


 今日は休みでしたが、書類を作ったり法務局に行ったり、レンターカーを借りてきたりしたらあっという間に夜になっていました(笑)
アップは、早朝に朝ごはんを食べながら打ち込んでいた個所です。読んだのは日曜日ですが.........。
 日本のユング派の文章には、ウィニコットが良く出てくる気がしていますが、気のせいでしょうか?

 下記は現場でも、強くそう思います。


『Arréterには「注意を向ける、気にかける」の意味もある。無条件の許しは、諦めや見捨てられたと変わらない。A君には、ダメなことはしっかりと“禁止”されると同時に、“気にかけられ/受けとめられる”体験が大切であったと思われる。』



『発達の非定型化と心理療法
第Ⅱ部事例
第2章ぶつかることによる枠組みの創造―落ち着きのなさを主訴に来談した小学生男児とのプレイセラピー
藤巻るり

1,はじめに
 ADHD (注意欠陥/多動障害)は、年齢あるいは発達に不釣り合いな注意力や衝動性・多動性を特徴とする行動の障害で、社会的な活動や学業機能に支障をきたすとされている。学齡期になると、学業成績不良、気分の不安定、自分勝手な行動、不器用などが目立ってくる。背景には脳の機能障害や成熟障害が推定されるが診断基準は行動レベルであり、医学的にも未解明な点が多いと言われている。虐待を受けた子どもや極端に甘やかされた子どもにも同様の病態が見られることが多く、心理社会的な要因も大きいとされる。
ADHD の診断の如何に関わらず、落ち着きがなく注意力散漫で衝動的な子どもが心理療法面に登場することは多い。心理療法においては、器質的な障害であるか否かで技法自体が変わるわけではない。それは心理療法的な見立てや関わりが、症状や問題の表れ方も含めてその人を全体的に理解しようと志向するからである。
 本稿では、落ち着きのない行動が目立ち。ADHDを疑われて来談したA君との2年間のプレイセラピー過程を報告する。来談時のA君の状態は、行動レベルで言えばADHDの診断基準を満たしうるものであった。家庭状況は、虐待やネグレクトのような深刻な問題を抱えているわけではないが、現代にありがちな関係性の希薄さと物質的な豊かさからくるある種の手応えのなさが特徴的であり、それがA君のあり方に大きく影響していたと考えられる。以下に示すように、そのようなA君とのプレイセラピーで決定的な意味を持ったのは、同じ時間に同じ場所で同じ人と会う、という心理療法の枠組み(治療構造)であった。〜


4,考察
(1) arréter(留める、逮捕する)という視点から
“落ち着きのなさ”という主訴は、周囲の大人たちから見た表現である。A君側からすれば“所在のなさ”のほうが近いだろう。「どこに座ればいいんだ?」(#1)という戸惑いに現われているように、A君は場の中に自分をうまく定位することができない。それは、リアルな手応えに乏しい環境で生育したこととも関係していると思われる。
 テレビの台数が家族構成員よりも多い上にビデオも2台あることに象徴されるように、A君の日常は、誰かとぶつかり合って交渉するどころか、自分の中で葛藤する機会さえ乏しい。河合が現代の家族の特徴として指摘するように、A君の家族は、関係が希薄化していると同時に境界もない。父親とA君は親子と言うよりも兄弟のような横並びの関係である。これもA君の世界が一つの秩序を持ってまとまりにくい一つの要因であろう。このように個人がバラバラに生活している環境では、心理的に母性や父性を体験しにくく、こころの土台が脆弱になりやすい。

A君は、時間内に脱走を試み、時間になると退室を渋り、PRから玩具を持ち出す。これは互いの意志とは独立したルールを介した、A君と筆者の本気のぶつかり合いである。筆者は断固として〈ダメ!〉と止めることで場のルールを守るだけでなく、A君自身を受け止めている感覚もあった。Arréterには「注意を向ける、気にかける」の意味もある。無条件の許しは、諦めや見捨てられたと変わらない。A君には、ダメなことはしっかりと“禁止”されると同時に、“気にかけられ/受けとめられる”体験が大切であったと思われる。そのためには、父性と母性の両方を同時に体現する関わりが必要であった。このケースでは、禁止と受け入れ、父性と母性など、対立する動きが同時に実現することが繰り返し起きている。これは、河合が発達障害心理療法で重視している「結合と分離の結合」の一つの表われ方であろう。後述するように、これは、“つながること”と“放つこと”として、その後、象徴レベルでも表現されることになる。〜

ウィニコット(Winnicott,D.W)が述べているように、世界に対して本当の安心感を持ち、創造的に生きられるようになるためには、幻想を持つことができることと、それが壊れてもなお自分も世界も生き残ることの両方が必要である。A君にとって、プレイセラピーの時間枠が変わることは“相談室が解体する”ほどの出来事であった。それほどリアルなファンタジーと、実際には破壊的なことは起きないという現実の両方を体験したことは、大きな意味があったと思われる



5,おわりに
 「場」や「空間」は必ずしも「第一のもの」であるとは限らない。田中によれば、発達障害の場合、クライエントとセラピストの間にアプリオリに「テーブル」は存在しない。そのため、そこに置かれるはずのイメージは「第三のもの」ではなく、それ自体を「第一のもの」としてセラピストが設定する必要があるという。
 A君の場合は、むしろ心理療法の枠組みが「第三のもの」(心理療法によって創造されたもの/AくんとThを媒介するもの)であったように思う。場の創造という形式面がテーマとなる時点で定型発達の心理療法とか異なるかもしれないが、それは必ずしも中身に入れないということではなく、心理療法という場を創造することそのものがクライエントのこころの作業となるセラピーもあるうるのではないだろうか。