うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

可愛いパッケージと、綺麗な夕焼けと、田植えの準備と、【 TEACCH】(精神分析と自閉症より)

 今日は、名古屋にアレクサンダー・テクニークを受けに行って来ました。
歩き方を見て頂きましたが、頭と脊椎の位置が前傾になっていたようで、正しい位置にしてもらうと本当に楽になり、視野も広くなりました。後は、チェアワークを時間までお願いしました。チェアワークはやはり基本ですね。
日々ボディマッピングができるようになれたらいいのでしょうが、中々そちらに気が行かないので、月に一回、自分の身体の動きについて見直すことも大事かと思いました。

 
会場の隅にある、販売コーナーにかわいらしいパッケージがあったので、見せて頂きました。
 フィンランドの紅茶(ブレンドしや加工が)らしく、

 コーヒーもありました。
ちょっとしたことで、かわいらしくなるもんですね!

 名古屋駅から栄まで徒歩で往復して、今日も沢山歩きましたが、お腹がへこみません.....。
 今日、教えて頂いた、脳を運ぶことだけを感じながら歩いてみました。お蕎麦屋さんの出前みたいに、手ではなく、脊椎(頸椎)で脳をバランスをとって運んでいる感じでしょうか?まだまだですね(笑)
 首のこりは大分楽にはなりました。


 帰宅してひーひー王子と散歩していたら、きれいな夕焼けでした。

 坂を下がると、田んぼは田植えの準備をしていました。
もう植えている所もあるので、これからが本番ですね!

 明日は、何ヶ月?何年?振りかで、金曜日日中に入ります!
うたたねができてから、金曜日の散歩はおっちゃんの仕事だったので、非常に楽しみです!
最近は夜勤ばかりでした(笑)重度の方々が大分落ち着いて来られたので、複数の職員が見る事が出来て来ています。

 電車の中では『自閉症とパーソナリティ』を読んでいましたが、昨日の続きでTEACCHの箇所のアップです。
TEACCH研究会に所属させて頂いていた時には、沢山セミナーに行かせて頂き、最後がノースカロライナで、それからはあまり、自閉症だけに関するセミナーには行っていません。
 今年に入り、発達障害自閉症を改めて(精神分析的に)勉強させていただくと、佐々木正美先生が、TEACCHを使うにしても心理学をしっかり勉強しないと(今から思うと紙を読むだけでなく臨床的な)意味がないと言われていた、本当の理由が、ほんの少しだけですが、理解しつつあるのかな?と思えるようになりました。
TEACCHの後、注目されていたのはABAでしたが、こちらも認知行動分析的な技法のように思いました。
 下記のように、全てのものには、フロイトが言っているように、良い面と悪い面があるので、やはり使い方や、時期をよく吟味しなければ、良薬にはなりえないのではと思われます。
 多数の施設職員が行っているTEACCHは、写真や絵カード、スケジュールを見せているだけで、内山先生が大分前に、初心者は取り敢えず見せる、中級者は効果に対して悦に入るというような辛辣なことを言われていましたが、それも今となっては、こちらもほんの少しだけですが、理解出来始めているように感じています。
 自分たちは臨床心理士精神分析家や精神科医ではありませんが、タヴィストックのテクニックは本当に参考になると思われるので、そのあたりの本を調べて、購入させて頂きたいと思っています。




 下記は、TEACCHを上手く表現していますね!本当に理解しないとこのようには書けません.....。

『もちろんこの構造は、自閉症のある人本人が自生的に生み出したというよりは、外から与えられたという側面が強いかも知れない。しかし、それによって少しでも「恒常性」が確保しやすい環境を作り上げ、できるだけ自発的な活動の可能性を広げようとする企てである。これは、社会学における「中間集団」論を連想させる。社会の危機に直面した個人は、自力だけでは危機を乗り越えられないかもしれなかが、中間集団に所属することで、間接的に力と余裕が与えられるのである。』


 下記も鋭い指摘です......。

『応用行動分析とTEACCHについては、前者は個人の行動に焦点をあて、後者は個人をとりまく空間や時間の構造に焦点をあてており、確かに対照的に見える。変るべきなのはどちらかという姿勢において、正反対にも見える。しかし両者には共通性もある(十一、2007,p.193)。』


 下記は、早く読みたいですね!

『このように、従来の養育法が採る道に対する批判的観点から、発達プロセスに微細な関心を向ける新たな養育法が登場してきた。「コミュニケーション能力の習得は出来る限り実際の対人相互的状況で行うという方針」を持つそれらは「発達論的養育論」と呼ばれている(十一,2007,pp.193-194)。これらの養育法は「優れた治療技法論であるにとどまらず、広汎性発達障害の根底にある問題を通じて、私たち定型発達者の意識が成り立つ前提を浮かび上がらせている」(p.195)。』




❄TEACCH
TEACCHは一九六〇年代に生まれた包括的な支援プログラムである。先に生み出された応用行動分析とは一線を画するものの、認知理論と行動理論を重視する点では応用行動分析と連続性がある(内山、2006、pp.20-21,165)。
これらの理論を重視することはすなわち、一九六〇年代まで自閉症の原因説明として有力であった精神分析とは対極の立場に立つことである(pp.15,20-21,29,167)。TEACCH自体は包括的でさまざまな側面を持つが、よく取り上げられる特徴の一つは、既述の「構造化」である。構造化は、「認知過程はブラックボックスである」と見なす伝統的な行動理論だけからは生まれず、行動理論を認知理論と結びつけたところから発想された(pp.31-32)。それでもやはり、「認知過程はブラックボックスである」という前提は多かれ少なかれ維持されているようである。それはすなわち、隠喩がブラックボックスのままであることを意味しているように思われる。その上で、安心感を生み出しやすい構造を外から設定することによって、隠喩に困難を抱える自閉症のある人を支援しようとする試みである。 もちろんこの構造は、自閉症のある人本人が自生的に生み出したというよりは、外から与えられたという側面が強いかも知れない。しかし、それによって少しでも「恒常性」が確保しやすい環境を作り上げ、できるだけ自発的な活動の可能性を広げようとする企てである。これは、社会学における「中間集団」論を連想させる。社会の危機に直面した個人は、自力だけでは危機を乗り越えられないかもしれなかが、中間集団に所属することで、間接的に力と余裕が与えられるのである。
 しかしTEACCHに対しても批判はある。構造化は確かにパニックを減らせるなど、効果的かもしれない。だが、それは本当の主体化なのであろうか。自閉症のある人にとって隠喩が自らのものとして成立したことになるのであろうか。つまりは、応用行動分析に向けられたのと同根の批判である。
 応用行動分析とTEACCHについては、前者は個人の行動に焦点をあて、後者は個人をとりまく空間や時間の構造に焦点をあてており、確かに対照的に見える。変るべきなのはどちらかという姿勢において、正反対にも見える。しかし両者には共通性もある(十一、2007,p.193)。
 応用行動分析は緻密な観察を用いて、不定形の現実の中に、先行刺激や後続刺激の有無によって生じる分岐点の可能性を見出す。そして分岐点を実践的に作り出し、ターゲット行動を変容させようとする。これは確かに、TEACCHにおける時空間の構造化とはいえないだろうか。
 応用行動分析には、ある不適切な行動をさせないために、その行動とは両立しえない別の行動をさせるように導く手法がある。例えば、自閉症のある人によく見られるおうむ返しをさせないために、質問への応答をせざるをえない状況を養育者が作り出すようにする。おうむ返しと質問への応答は同時に行うことが不可能なので、自ずとおうむ返しは消えるわけである(リッチマン、2003,p.117)。これは考えようによっては、論理という疑似空間における矛盾を活用した構造化であろう。
 これら二つの療育法は、(時空間にせよ論理にせよ)構造を主体にとって価値のあるものに変えようと目指す点で共通しているように思われる。裏返して言えば、主体と構造の関わり方そのもの、あるいは構造生成の始まりにはあえて踏み込んではいかない。つまり、隠喩の成立しれ自体にアプローチする道を採っていないのである。もっとも、そのような限定的な戦略こそが、養育法としての有効性を生み出しているのかもしれないのであるが。それはいわば「水平」的なアプローチなのである(武藤、2007,p.177)。その性質は、隠喩的であるよりは換喩的である。
 このように、従来の養育法が採る道に対する批判的観点から、発達プロセスに微細な関心を向ける新たな養育法が登場してきた。「コミュニケーション能力の習得は出来る限り実際の対人相互的状況で行うという方針」を持つそれらは「発達論的養育論」と呼ばれている(十一,2007,pp.193-194)。これらの養育法は「優れた治療技法論であるにとどまらず、広汎性発達障害の根底にある問題を通じて、私たち定型発達者の意識が成り立つ前提を浮かび上がらせている」(p.195)。