うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

Nicki Parrott の I Will WaitYouと、今日の日中と、【フロイトの思考における1920年代の転回】

 ほぼ毎日、ユーチューブで音楽の動画を見ているので、ユーチューブを開いたら、あなたへのおすすめがいくつか出て来ますが、あまり開かなかったのですが、一昨日開いてみたら、Nicki Parrott の I Will WaitYouがあり、画像が素敵だったので開いてみたら、シェルブールの雨傘でした。歌もアレンジも素敵だったので、リピートしながらひーひー王子と約一時間歩いてきました(笑)
下記です。↓
https://youtu.be/iBNm5FlyJvc




 今日は、ゆうちゃんと約束していたので、お昼に男組でアプレシオに行きましたが、まりちゃんもついて来ていました(笑)みなさん凄かったです.....。
 適当にセーブして頂き、食べた分運動しようと、白谷海浜公園で沢山歩きました!


 早く帰られる方を残して、外出できていなかった方だけ、池ノ原で散歩して....と思っていましたが、皆さん神経が鋭敏で(笑)かおちゃんが支度をしていたら皆さん車に乗っていました(笑)
 お茶の先生も大歓迎で!みんなでお点前頂戴してきました!
かおちゃんニコニコですね!
後で、椿公園まで歩きました。

 

 『治療の行き詰まりと解釈』を読んでいて調べたい事があり『フロイトを読む』に少し戻ってみました。
今読んでいる箇所に関係ある箇所だったので少しだけアップさせて頂きました。
 難しいですが、少しずつ頭の中に入って行くのが最近やっと感じられるようになってきました(笑)
これからギター(エレキ)を思いっきり弾いて、汗を出してから風呂に入って寝ます(笑)


『快原理の彼岸』(1920g)
フロイトの思考における1920年代の転回
 1920年は、フロイトによる心の機能を考察する仕方が、決定的に転回した跡を留めている。その時点まで彼はモデルとして、神経症者に観察されるような、「快—不快原理」を採用していた。事実、神経症者は症状に苦しみ、不快を避けようとして、それから解放されて生きる快を再び見出すために、精神分析者の助けを求める。だが、臨床実践はしばしば快原理を裏切るようになることを、認めざるを得ない。事実、症状の緩和に耐えられず、良くなったに違いないときに再び悪化する患者がいることは、どう説明できるだろうか。別の患者は、なぜ外傷的体験を、それに付随する苦痛とともに強迫的に再現するのだろうか。マゾヒズムサディズムつまり苦しむことの快と苦しませることの快は、どう説明されるのだろうか。抑うつ患者や薬物嗜癖者・倒錯者・精神病者たちの、時に極端にまで推し進められる破壊性は、どこからくるのだろうか。
 『快原理の彼岸』でフロイトは、更に先を行く新しい仮説を提唱し、個人の心的機能は快原理よりも基礎的な葛藤によって統御されていると仮定する。それは生の欲動と死の欲動の間の根本的葛藤である。彼によれば死の欲動は、あらゆる有機体が持つ、その最初の状態すなわち無機体へと回帰する生物学的欲求に由来する。だが死の欲動―あるいは破壊欲動―には、リピドーをその一部とする生の欲動―エロース―が反対する。確かに、快原理はその意義を保っているが、それが優勢になるには性の欲動は、死の欲動を少なくとも部分的には制御するに至らなければならない。1920年フロイトは、この仮説を一つの純粋な思弁として提示しているが、まもなく、彼はそれにますます重要性を与え、それについての他の含意を発展させるようになる。例えば1923年にフロイトは、死の欲動が葛藤の中で支配的な時、サディズムマゾヒズムにおけるように、心的生活の破壊的成分が重きをなし、反対に生の欲動が支配的なときは、破壊成分の一部は中和されて攻撃性は生と自我に仕えるようになることを示すだろう。 「1920年の転回」が言われるとき、それはフロイトが生の欲動と死の欲動の間の根本的葛藤を導入した年につてばかりでなく、続く年月の間に彼の心の中で形を成していく、新しい着想についても語っている。そうした革新的な考えの中で、以後彼が、愛と憎しみの情緒・両価性・対象関係・同一化の過程、そして無意識的罪責感・不安・喪の情緒に付与する重要性を指摘しよう。それに加えて、心的構造の自我・エス超自我への新しい分割すなわち「第2構造論」を導入することになる1923年以降、フロイトは「第1局所論」つまり無意識・前意識・意識の間の分割を補完する、欲動の新しい理論を考慮に入れていく。フロイトによる1920年以後のさまざまな新機軸は、部分的には大多数の精神分析者に受け入れられたにしても、欲動の二元性の存在は、今日に至るまでまだ、彼の著作の最も議論のある問の一つのままである。


【伝記と歴史】
フロイトの周りの死の影
 フロイト1920年6月16日に、『快原理の彼岸』の外用をウィーン分析協会で発表した後、この著作は12月に出版された。この難解なテクストの高度に思弁的な側面によって、フロイトが自分自身で自分が提起しているものの妥当性について表している疑念と同様に、この仮説は最大限の保留とともに受け留められる。また、それに異議を唱える人たちにとっては、それらを単に死を前にしたフロイトの個人的な不安の表現だと見なす誘惑が強かった。これは特に、彼の内科主治医マックス・シュールMax Sehur(1972)の意見だった。
 この時期を際立たせる出来事の中で第一次世界大戦は、困窮した生活とそこら中にある死を含めて、まだ最近のことだった。1919年にはフロイトは、精神分析者タウスクの自殺に対処しなければならなかったが、彼は感情を動かされずに受け止めたようだった。(P.Gay 1988)。それに反して、彼はアントン・フォン・フォロイントの癌にはつらさを強く感じた。彼は精神分析の財政的支援者だったこのハンガリー人を、病気の間毎日見舞った。1920年は、娘のゾフィーが亡くなった年でもあった。彼女は第3子を妊娠していたのに、スペイン風邪に罹患して5日で命を奪われた。この時期にフロイトの心を占めた他の陰鬱な懸念の中で、彼の自分の死に関わるものを指摘しよう。迷信―さまざまな周期で62という数が繰り返されていること―に基づいて、実際には彼は長い間、自分が62歳に達している1818年か1919年に死ぬだろうと確信していたのだった。



欲動の第2理論:核心を深めるフロイト
 戦後のこの時期、死の影がフロイトの周辺に重くのしかかってにせよ、それでもやはり彼にこれらの大胆な仮説を導入させたのは、結局、彼の思考の発展に固有の動機であることに変わりはない。事実、彼は1920年には躊躇をあらわしているが、人生の終わりまで彼は、生の欲動と死の欲動の間の葛藤を考慮に入れるフツ要請を強調し続けるだろう。しかしながら、彼の死に対する没頭とこの時期の悲劇的出来事、特にゾフィーの死の中に、死の欲動の概念を導入した理由を見ようとするあらゆる者に対して、フロイトははっきり拒んだ。精神分析者である限りで彼は、この解釈の正当性を認めはしたが、この自分の場合についてはそれを拒絶した。例えば、この種の反論を予防するために、彼はアイティンゴンに著作の執筆が、ゾフィーの死の1年前である1919年には既に半分終わっていたことを証言するように求めた。