うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

神戸館年末チャリティー絵画展と、日本のトリセツと、●「欲動と欲動運命」(1915c)




 中々顔を出せないでいた、年末チャリティー絵画展に早朝に行って来ました。
 今回は豊橋市の宮大工さんが沢山提供して下さり、長澤さんの目標額までもう少しと仰っていました。
 皆様、ご協力本当にありがとうございます!小さな法人には本当に助かります。
 小物がなくなったということでしたので、おっちゃんの変な物(笑)3つ持って行かせて頂きました。おっちゃんのは、変な物が(みなさんに絶対売れないといわれたもの)売れ、まともな物が出ていませんでした(笑)。世間は分からないことばかりですね(笑)




 日本のトリセツの続きですが(笑)やっと画像がアップできたので。串カツの部分をアップしてみました。



 予定通りの?『フロイトを読む』からのアップです。
読んでいただければ、昨日アップさせていただいた意味を分かっていただけると思われます。

●「欲動と欲動運命」(1915c)
□標準版第14巻109−140頁(岩波版フロイロ全集第14巻167−193)所収。
●欲動の一般的特徴
 pulsionは、以前instinctとフランス語訳されていたドイツ語Triebの、フランス語訳である。ストレイチーStracheyはその語を標準版で“instinct”〔本能〕と英訳している。フロイトは『性理論のための三篇』(1995c)で展開した見解を繰り返しながら、欲動を源泉・目標・対象を持つ力動的な衝迫として定義し、これらの合意を記述している。欲動は一定の力として作用し、欲動の目標に対応する「満足」を通してのみ除去されうる「欲求」と比較できる。フロイトは「欲動」で意味するもののモデルを、誰にもある食物摂取の欲求や性的満足の迫求に見る。欲動の目標はつねに満足を得ることではあるが、欲動の対象――すなわちその欲動が目標を達成できるものやその手段となるもの――は、もっと可変的である。それは外的対象つまり周囲の誰かでも、自分の身体の一部でもよい。一般に、この対象は偶発的であって唯一独自のものではなく、入れ替えできるものであることが認められる。「欲動が様々な生涯の運命を辿る中で、対象は何度となくしばしば変更されうる」(1915c:122-123,岩波14:170)。結局、欲動の衝迫の「源泉」とは、「ある器官ないしは身体の一部における身体過程で、なおかつその刺激が、心の生活の中で欲動によって代表されているようなものとして理解される」(同123,岩波14:173)。結局のところ、私たちは欲動の源泉を間接的にしか知ることができない。「心の生活においては欲動はただ、そのもろもろの目標を通じてのみ私たちに知られてくる」(同123,岩波14:170)。
 神経組織には、欲動の刺激を克服する仕事が与えられている。つまり「やって来る刺激を元通りに〔wieder〕除去する、可能なかぎり低い水準に落とすという機能」(同120,岩波14:170)である。心的装置の活動に関わるものについてフロイトは、彼の著作のこの時期には、それが快原理に従い、快―不快系列の感覚によって自動的に調整されている、と主張している。「不快感覚は刺激の増大に、快感覚は刺激の低減と関係する」(同120-121、岩波14:171)。これらの前提から出発してフロイトは、欲動の概念を「心的なものと身体的なものとの境界概念として、身体内部に発し心の内へと達する刺激を心的に代表するものとして、心的なものが身体的なものと繋がっているために心的なものに課せられている労働要請の量〔Maβ〕」(同121−122,岩波14:172)として再定義している。


●自己保存欲動と性欲動
 多くの種類の欲動があるが、フロイトはそれらを2つの源欲動の群へと帰着させる。その2群とは、飢えと摂食の働きをモデルとする自我欲動あるいは自己保存欲動と、性欲動である。性欲動は発達の過程では、それに器官的源泉・方向・対象を与える自己保存欲動に支えられている。性欲動が自律したものとなるのは、その外的対象が放棄されてからのことである。例えば、乳房を吸うことから得られる快において、その性源域である口唇の満足は、食物摂取の欲求と繋がった性愛的快であり、乳を吸うことと繋がった性的快がそれから身を引き離していくのは、ただ後になってからのことである。フロイトはまだ自己保存欲動と性欲動との対立に、以前指摘していたように、転移神経症によって表わされる葛藤の源泉も認める。彼によれば葛藤は、空想を通じて満足できて快原理に従う性欲動が、自己保存欲動によって表わされる現実原理に突き当たるという事実に由来する。後者の欲動は、現実の対象を通してしか満足を得られない。「それゆえ、神経症につながる心的な素因の本質的な部分は現実の顧慮(Beachtung)へと性欲動を教育するのが遅れたこと[……]による」(1911b:223,岩波11:264)。のちにフロイトは、この2群の欲動の間の区別と、その結果神経症に生じる葛藤に、あまり重要性を与えなくなる。


●欲動の斬新的総合
 性欲動には、それが数多くあり、複数の部分的身体源泉から発生し、斬新的に総合されて性的成熟にまで至るという一般的諸特徴があるとフロイトは続ける。「それらは、はじめはばらばらに活動しており、のちになってはじめて程度の差こそあれある完結したかたちへととりまとめられる。それぞれの性欲動がそれぞれに目掛ける目標は、器官快の獲得である。そしてそれらのとりまとめが行なわれてはじめて生殖機能の務めを果たすことができるようになる。こうして性欲動は性欲動としてみなの認めるところとなる」(1915c:125-126,岩波14:176)