うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

日本の取説と、治療室=楽屋論と、『メタ心理学(サイコロジー)諸篇』


 こちらは、11月30日に利用させていただいたホテルにあったものですが、剣玉とかダルマ崩しだとか(笑)今の世代の方はしないであろうもののやり方も載っていて、少し笑わせていただきました。
 お風呂の使い方なんかは良く出来ていましたので、硬くなり過ぎないように遊びを入れたのでしょうか?
 今回のホテルにはありませんでした。



 昨日、一人で楽屋に機材や楽器を運んでいたら、北山修先生の言う、楽屋を思い出しました。

 〜一度チャンピオンになった者は、いつまでたってもノックアウトした瞬間が忘れられないので、リングに上がりたがるっていうのね。それでも我慢して生きなくちゃいけない。それが「作り笑い」であり、「武士は食わねど高楊枝」であったり、「自転車操業」とか。素晴らしい言葉だと思いません?僕は、自転車操業ってのはすごいって思うんだけど、こぐのを止めるとこけるからなんですね。自転車操業ってのは。いつまでもペダルを踏み続けないと真っすぐ走っていけない、人生は、やめたら途端に転んでしまう。ああ、アヒルの水かきってのもそうですね。日本語はすごいですよ、これ。だから、僕が申し上げていることは、そんなに一部の人間たちの問題ではない。皆さんもかかわってくる話で、患者さんは自分がない。自分が出せない。自分を殺してしまう。ああ、死にたい。居場所がない。だから、私達はこの自転車操業をやめる場面。あるいは、アヒルの水かきをやめる場面。あるいは、「武士は食わねど」って言うけど、本当は食べたいっていう気持ちを汲む場面。あるいは、作り笑いは本当は泣きたいという気持ちを表現したい。その思いを汲む場面をつくっていくのが、私達は現代における精神分析の本当に大きな課題だと思う。治療室=楽屋論です。これが、私の提案です。
 心の二重構造を支える。「治療室は、人々の楽屋である。だって人生は演劇である」と言ってるんですね。だから、こうやって申し上げてきたように、精神分析の劇的観点。精神分析っていうのは、人の心の台本を読むっていうことである。で、人生論的劇的観点、人生は劇であるっていう、まあ人生劇場っていう観点。「人生は回り舞台だ」っていう歌もありますし、歌謡曲を聴いているとほとんどこんな話ばっかりですよね。
 日本人の劇的観点、これを総合しますと、「人生は劇である」と多くの人が思っているっていうことです。こういうことを九州大学で言うとね、若い人にこういうことを言ってるわけで。そうすると、面白い反応が得られるんだけど、女の子がよく分かるんだよね、化粧してるから。化粧しない子も作らされるってのかな。女を演
じさせられてるっていう苦労を、本当に彼女たちは、この社会があるステレオタイピックな女っていうものを押し付けてきてるっていうのを、彼女たちは本当によく知っている。だから、その間でもがいているし、そしてそれを時々演じながら、適当に作り笑いしながら本音を言っているっていう自分をとても自覚的に考えておられるので、私の話がよく通じるので「先生の話を聞いて安心した。先生もそうなんですか」みたいな話になるんだけど、男の子はこの話を聞いて「先生、若い時からそんなふうに思っておられたんですか。寂しくないですか」とかって。「おまえ若いなあ。まあね、こういうのは60 にならないと分からないかなあ」って言ってはいるんだけど。男の子は何となくがっかりするみたい、これを言うと。「先生、人生って本物じゃないんですか」って。「いや、本物だけどね。ちょっとだけ」。近松門左衛門が「虚実皮膜」って言ったけども、人生って本当とウソが入り交じっているんだ。その虚実を見分けるのは大変なんだ。でも、丹念に生きなくちゃいけない。これがウソだからといって、失望するわけにはいかない。放り出すわけにもいかない。というふうに、男の子と女の子に差がありますね、確かに。〜


 このギターさんが今回は頑張ってくれました。
ホテルでは、狭いケースから出して、程よい室温にして朝までベッドにいました。
 ツインの部屋しか空いていなかったのでwギターさんと寝ました.....。

明日の絵画作品の搬出で、全国障害者芸術文化祭関係の仕事が終わります。愛知県の担当者さんから、キチンとメールで挨拶があり、丁寧な仕事をして頂き感謝しています。ありがとうございました。参加者さんからも、楽しい時間をありがとうございましたと、連絡を頂いています。



 久しぶりに、本のアップ(フロイトを読むより)ですが、少しこの部分が続く予定です(笑)
まずは前哨戦(笑)段々核心へと向かう予定です。

『メタ心理学(サイコロジー)諸篇』(1915-1917)
【到達点と出発点】
 「メタ心理学」とは何だろうか。それはフロイトがつくった用語で、30年以上の精神分析的な経験に基づいた、心的機能についての理論を指している。彼自身の言葉によれば、メタ心理学と心理学的事象の観察との関係は、形而上学(メタフィジック)と物質界における事象の観察との関係と同じである。フロイトはこのように、臨床的・記述的水準から理論的抽象の水準へと移行し、一般的な有効性を持ちうる、人間の心的構造の機能についての諸モデルを提唱する。例えば、「欲動」という観念について考えよう。フロイトは「欲動」という用語を、人間存在を栄養摂取することと生殖することに向かわせる力を記述するために導入し、前者の群を「自己保存欲動」と、後者の群を「性欲動」と呼ぶ。「欲動」は抽象的な観念であるために、私たちは欲動それ自体に出会うことは決してなく、欲動が生む諸結果やそれを表象するものを通して、間接的に知覚する。したがって性欲動は、誰かに向かう性愛的欲望から生まれた動揺や、その欲望を表現するための言葉を通して、多様な仕方で現われたり、夢の筋書きの中に姿を見せたりする可能性がある。『メタ心理学(サイコロジー)諸篇』においてフロイトは、主として一般的・抽象的用語で記述している。そのため臨床結果に乏しい読者には、これらのテキストを理解することがしばしば困難である。だから私たちは、フロイト省察をたどる際に、彼の念頭には常に臨床と理論との結びつきがあったことを決して忘れないようにしよう。
 フロイトの思索の発展という点から見ると、『メタ心理学諸篇』は何よりもまず、彼が正常および病理的な心的機能の総合モデルを提案するようになる、ゆっくりした発展の成果である。これは、無意識・前意識・意識の区分に基づくフロイトの「第1局所論」と、快-不快原理に基づく「第1欲動論」という名で知られている。しかし、これらの『メタ心理学諸篇』は同時に、彼の新たな見地の出発点である。そこには、対象関係・同一化・愛と憎しみの情緒・無意識的罪責感を考慮にいれることが含まれていく。これらの新しい道筋は数年後、フロイトの「第2局所論」と「第2欲動論」に到達する。

《伝記と歴史》
【困難だが生産的な時代】
戦争の時代(1914-1918)
 第一次世界大戦中および終戦直後の数年間、フロイトは困難だが科学的な次元では多様な時期を経験した。1914年7月の宣戦布告の時、アナは一次イギリスで身動きがとれなくなってしまったが、E,ジョーンズの助力でウィーンに戻ることができた。フロイトの2人の息子、マルティンMartinはロシアに、エルンストEmstはイタリアに徴兵されており、フロイト一家は、彼らの境遇を大変心配した。1915年11月、フロイトは異母兄弟のエマニュエルの死をひどく悲しんだ。その享年は81歳で、彼の父と同じだった。翌1916年には、フロイトの息子オリバーOliverが招集された。戦争が引き起こした困難のために、治療中の患者は僅かとなり、手紙は不定期で、訪問者はほとんど居なかった。精神分析の定期刊行物の存続があやうくなって、フロイト自身がそれを引き受けなければならなかった。このような状況ではあったが、彼はK,アブラハムと、特にメランコリーについて集中的なやりとりを続けた。フェレンツィとルー・アンドレス-ザロメLou Andreas‐Saloméとも同様だった。

60歳を前にした総決算
 1915年にフロイトは、それまでの彼の仕事を総決算するかのように『メタ心理学諸篇』を構成する12の理論的論文の執筆に取り掛かった。60歳を迎えつつあるのを感じたフロイトは、もう数年しか生きられないと思っていた。大戦とそれがもたらした不幸は、死への彼の関心を強めるばかりだった。フロイトは、終戦後にこれらの論文を『メタ心理学への序論Zur Vorbereitung einer Metapsychologie』という書名の本として出版する予定でいた。さしあたって彼は1915年に最初の3論文、「欲動と欲動運命」・「抑圧」・「無意識」を別々に発表した。彼の手紙によれば、彼は残りの7論文を既に書き終えていた。しかし、彼はこれらの出版を断念して、結果的に予定された本は世に出なかった。しかし1983年、フェレンツィが残した書類のなかから、12番目の未刊行の「転移神経症の展望」と題された論文の複写が、フェレンツィにそれへの意見を求めるフロイトからの手紙と一緒に発見された(I.Grunbirich-Simitis,1985a[1915])。その他の論文はおそらく、フロイトよって破棄された。