うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

絵の搬出と、ハイウエイオアシスと、《性欲主義と主体主義》  ダニー・ノブス


 早朝から、名古屋に絵の搬出に行ってきました。
愛知県の職員さんが丁寧に持ってきてくれ、きちんと挨拶までして下さったので、こちらもお礼を言わせていただいて帰ってきました。
 これで文化祭関係の仕事は終わりました。
経費の計算が残っていますが....。


 ついでにアレクサンダー・テクニークも受けてきました。
建設的な休息というのを指導していただき、補助を受けながらさせていただくと、身体の動きがスムーズで、どこにも変に力が入らず首や肩が非常に軽くなりました。
 普段から意識して出来れば良いのですが、ついつい好戦的になってしまっています........。

 会場には、クリスマスの飾りがありましたが、街ではあまりクリスマス・クリスマスした感じがなかったように感じたのは自分だけでしょうか?パイプオルガンを聴いて帰ろうかと思いましたが、疲れ気味なので、まっすぐ帰ってきました。

 藤木先生に読めと言われた内村鑑三の本も会場にあり、少しだけ読ませていただいたら、やはり藤木先生の言葉をいくつか思い出しもっと、頑張らんとあかんな!と思いました。





 途中、刈谷のハイウエイオアシスで昼食(カレー)を食べ、お土産を見ていると、色々なものがあり、一周回ってしまいました(笑)
 抹茶を飲もうかと思いましたが、もったいない気がして、結局何も買わずに帰ってきました笑)

 以前ネットで見たこんなものもありましたが、怖いもの見たさでよく見ると、健全な商品だったので、逆にビックリしました(笑)成分を見ると凄まじい!   でも、おっちゃんには関係ない(笑)

 

 カレーを頂きながら『クラインーラカン ダイアローグ』を読んでいたら、昨日のアップに関係があったので、変更してこちらを先にアップさせていただきました。

『性の喜劇を理論化する』
ラカンセクシュアリティー論】
《性欲主義と主体主義》ダニー・ノブス 
 フロイトは『性理論三篇』第四版(一九二〇年五月)の序文のなかで、精神分析が広く公衆に受け入れられる際のおもな障害物の一つは、「人間のすべての営みにおいて、性が重要な位置を占めると主張し、性の概念を拡張しようと試みている」ことにあるとしています。精神分析を「汎性欲主義」と特徴づけ、すべての人間的現象を性的葛藤のせいにしていると精神分析家を非難する人びとがいましたが、このような事実にフロイトは嘆いていました。しかし、、予想に反して、偏在する性というこの疑わしい精神分析的主張を彼は撤回しようとはしませんでした。むしろ、人間の活動すべての背後に活動的な性の要素が存在するという考えは、精神分析によって導入されたのではないと主張しました。というのも、そのような要素はすでに哲学者たち、とりわけアルトゥール・ショーペンハウアーなどの知るところであったからです。同じ文脈でフロイトの強調するには、「性的過剰」だとして精神分析を非難する人びとは、偏在するエロスへの賛歌を歌い上げたのがプラトンのような、思いもよらない哲学者であるということを忘れているとのことでした。 
 ですからフロイトは、精神分析理論におけるセクシャリティーの中心的な位置について批判者たちが判断を誤っていたということをあえて示そうとはしませんでした。彼は「拡張された性」という概念を修正しようとはせずに、単に「汎性欲主義」を「意味のない非難」だと考えていたのですが、彼のこの態度は私たちにある問いを投げかけます。それは、彼は何故に一方では偏在する性という考えに容易に同意しながら、他方では精神分析セクシャリティーに還元することに異議を唱え続けたのかという問いです。フロイトにとっては、精神分析を「すべては性である」と見なす教義だと考えている連中は、人間の可能性と精神分析の活動の広大な領域を無視する者であった、という理由が考えられるでしょう。実際、フロイトの一九二〇年の発見とは、エロスがどんなにその影響力が重要なものであるとは言え、人間を駆り立てる唯一の力ではないということでした。といいますのも、エロスの権勢は同様に力強い要因、すなわちタナトスから継続的に戦いを望まれているからです。性欲動の伴侶としての死の欲動の存在が要請されることにより、さらに別のフロイト的二元論が導入されたのです。生物学と精神、体質的なものと偶然的なもの、快楽と現実、等々の二元論がすでにあったわけですから。しかしまたこの要請によって、精神分析を汎性欲理論とは見なすことはできないという良い理由が提供されたことにもなります。とは言いましても、タナトスはエロス以上の難題でして、とりわけフロイト精神分析家たち自身にとってはなおさら難題なのです。この点に関して言えば、死の欲動を拒絶してそれを「攻撃衝動」に置き換えたハルトマンやレーヴェンシュタインのようなポスト・フロイディアンたちというのは、自分たちなりの流儀で精神分析を「汎性欲主義」へと理論的に偏向させるよう寄与したと言えるでしょう。と言いますのも、彼らはフロイトの二項対立を、葛藤状態にあるというよりは共同で作動する適応能力のシステムへと置き換えたのですから。〜



+1 原注 フロイトの学説のなかでセクシュアリティーは重要な位置を占めているが、これがアドラーユングとの軋轢のおもな点の一つである。二人はおもに脱性化された精神分析理論を発展させた。

+2 原注 一九一九年五月一日にルー=アンドレアス・ザロメに宛てられた手紙のなかで、フロイトは近年死のテーマに興味を持っていたのでショーペンハウアーの著作を読み始めたと書いている。しかし、フロイトはその時期にセクシャリティーについての哲学者のアイデアを発見したのではない。というのも、セクシャリティーに対するショーペンハウアーの見方については、すでに一九一七年の『精神分析の困難さについて』のなかで言及されているからである。ポール=ロラン・アッスーンはショーペンハウアーへのフロイトの賛辞についてのきわめて詳細な研究のなかで、フロイトセクシャリティーに対する哲学者の強調に言及するとき、彼が念頭に置いていたのは、ショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』(一八一九年)に対する補足『愛の形而上学』からの文章であることを示している。ショーペンハウアーはこのなかで、「一般的に言って性本能は単なる生きる意志である」と主張している。アッスーンはまた、ショーペンハウアーフロイトと哲学との関係の「イデオロギー的なモデル」を構成し、フロイトは多くの科学的著作をショーペンハウアーパースペクティブを通して読んでいる、という命題を説得的に論議している。