うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

ねこさんと、痛チョコと、花粉症と、『抑圧』


今朝、事務所に行こうとしたら、ねこさんが車の上にいました。
フロントガラスに写っている自分を見ている様な感じもしましたが、気のせいでしょうか?
 ナルシシズムを思い出しました(笑)

 適当に(笑)事務をして、花粉症の症状が出て来たので、夜勤前に慌てて薬をもらいに行って来ました。
もうそんな時期なんですね.....。


 バレンタインももうすぐなので、今日はネタがないので先日さわやかさんでハンバーグを頂いたときにレジ横にあったものの写真をアップしてみました。
 自分が小さい頃は、ガムでこんなのがあり、兄が調子こいて(笑)みんなにやっていたのを思い出しました(笑)


自閉症スペクトラム』を読んでいて分からなかったところを、他の本で調べていたら自分が欲しかった答えの一つが『フロイトを読む』にあったので、ついでに(笑)アップさせて頂きました。
 頭が悪いので、時々基礎に戻らないと、こんがらがってしまいます(笑)

 夜勤に行って来ます!




『抑圧』(1915d)
●抑圧の役割
 フロイトが1915年に関わっている「第1欲動論」に従えば、欲動は本質的に、満足による快を求めている。しかし、欲動はその快の追求において、それを無効にしようとする諸抵抗にぶつかる。これらの抵抗の中で抑圧は、逃走――内部から生じる欲動を前にして実行不可能である――と断罪の間の妥協であるために、特別な位置を占める。欲動は満足による快を求めているのに、なぜ抑圧される運命にあるのだろうか。それは、欲動の満足が心的構造のある部分で快を引き起こしても、その快は心的構造の別の部分の諸要求と折り合わないようだからであり、抑圧を開始する「判断棄却」が介入するのは、ここにおいてである。「抑圧の本質は、意識的なものを拒絶し〔Abweisung〕、遠ざけておくことにある」(1915d;147、岩波14:197)。だから抑圧は、最初からある防衛機制ではなく、それが活動し始めるのは、ただ意識と無意識の間の分離が確立してからである。フロイトは、この分離以前には、対立物への変換や自己への向け換えのような、欲動に対する他の防衛機制が働いているという仮説を提起している。



●表象の運命
 フロイトはここで、直接言及はしていないが、1894年と1896年の防衛神経精神病についての論文の中で提起していた緒仮説を、再び取り上げている。彼は、抑圧をうける可能性のある欲動の心的代表の中に、それぞれ別の運命をたどる2つの要素、表象と情緒を区別する。表象に関しては、フロイトによれば原抑圧が存在する。それは「抑圧の最初の相期で、心的な(表象の)代表が、意識的なものの中へと受け入れられることが不首尾に終わるということに存している」(同149、岩波14:197)ものである。例えば「少年ハンス」の場合、馬にかまれるという不安は、父親によって去勢されるという無意識的不安を隠している。つまり「父親」という考えが、抑圧された表象である。本来固有の抑圧である抑圧の第2段階は、「抑圧された代表の派生物に対して向けられるか、あるいはその代表とは別のところに由来しつつも、その代表との連想関係を持つようになってしまった思考系列に対して向けられる」(同148、岩波14:198)。
したがって抑圧は、狭義の表象とばかりではなく、無意識の派生物すなわち、抑圧されたものから幾分結びの隔たった諸産物とも関わりがある。それらもまた、防衛の対象となる派生したものである。この見地では、症状もまた抑圧された派生物である。しかし欲動の抑圧は消滅するどころか、無意識の中で組織化され、派生物を産み、「いわば暗闇で繁茂」(同149、岩波14:199)し続ける。フロイトは、この連続的な過程から結果として抑圧が、事後的なものであることを明確にする。例えば少年ハンスでは、馬に関する不安・外出できないこと・彼の友達が落馬した記憶などもまた、抑圧されたものの派生物である。
 これらの無意識的派生物は、その抑圧された内容から充分に遠く隔たっているときには、自由に意識に接近することができる。そこで精神分析者は、患者の自由連想を通じて、それらを突き止めることができる。



●抑圧の特徴
 フロイトによれば、抑圧は「高度に個別的に」(同151、岩波14:200)働き、一つ一つの心的派生物を扱う。その上、抑圧は高度に流動的で、持続的な力の消費を要求する。だから、抑圧された欲動の心的内容が無意識の中に維持されるか、意識に再び浮上するかは、量的因子に左右される。「しかし、葛藤にとっては量的な契機が決定的なので、基本的には不愉快な表象がある一定の程度を超えて強くなれば、たちまち葛藤は現勢的なものとなって、活性化は抑圧を招き寄せる」(同152、岩波14:202)。



●情緒の運命
 フロイトは表彰の運命を示した後、今度は情緒が被る運命を粗描する。彼によれば、情緒――あるいは、より正確には「情緒量〔Affektbetrag〕」(同152、岩波14:202)――は、抑圧を受ける欲動の量的要素を構成する。「欲動が表象から離れて、情緒として感受されるようになる過程で、その量にふさわしい表現を見出す限りにおいて、これは欲動に対応している。今後われわれは、何らかの抑圧の事例を記述するに当たっては、抑圧を受け入れた場合に表象はどうなるかを、表象に付着していた欲動エネルギーはどうなのかを、別々に究明していかなければならない」(同152、岩波14:202−3)。
 少年ハンスの例に戻ると、抑圧を受けた情緒は、その少年の父親への敵対的衝動であり、父親を殺したいというエディプス・コンプレックスに属する欲望である。
 欲動を代表している表象の運命はこれまで見てきたように、意識から引き離しておかれることだが、欲動代表の量的因子の運命は、3種類ありうる。それは、欲動が全く抑えられて何の痕跡も残さなくなるか、質的な色づけとともに現れるか、不安へと変換されるかである。抑圧の目的は不快の回避にあるため、「そこから帰結することとして、その代表に属している情緒量の運命は、その表象の運命よりもはるかにひゅう題であり、抑圧過程の評価〔Beurteilung〕を決定する」(同153、岩波14:204)。続けてフロイトは、抑圧は代替物の形成と症状を引き起こすと指摘し、これらが抑圧されたものの回帰の直接的な産物かどうかを知るために、全く異なる道を通して自問する。フロイトは、3つの主な精神神経症における抑圧の作用を、詳しく記述し、臨床実践にとって非常に明快な実証でこの論文を終える。動物恐怖のような不安ヒステリー(あるいは恐怖症)では、抑圧は失敗し、せいぜい一つの表象を別のそれに置き換えるだけであり、不安ヒステリー患者のまったくの関心」は、これによって説明される。しかしそれは、縮合によって備給全体を引き寄せる、症状である甚だしい代替物の形成という犠牲を払ってのことである。最後に強迫神経症では、抑圧されるのは、愛する人に対する敵である。しかしその抑圧は維持されず、その情緒は際限のない自己非難の形で戻ってくる。




フロイトの概念の継時的発展》
【情緒とは何なのか】
 情緒とは何かを定義しようとすると、この用語は精神分析においてきわめて多用な意味を持っているので、不気宇雑な問題に直ちに突き当たる。情緒は、フロイトの初期の仕事から存在する観念であり、彼はそれを主に2つの語義で用いている。広い意味では、情緒は可変の質と強度の情動状態一般を指すのに対して、狭い意味では、情緒は欲動のエネルギーを考慮に入れる理論において、欲動の量的表現となっている。情緒が中心的な役割を担うようになるのは、『ヒステリー研究』(1895d)においてである。そこでフロイトは症状の起源を、放散が不可能な「絞扼された情緒」にあるとする。治療の目的は、忘れられた外傷的出来事の想起を通じて、その情動を放散することであり、その放散は浄化反応の構成要素である。以後フロイトは、表象と情緒に異なる運命を割り当てる。彼は1915年の『メタ心理学諸篇』で「情緒量」について語る際には、情緒の経済的次元を力説することになる。
 情緒という観念は後に、その意味の外延を広げて、不安・喪・罪責感・愛・憎しみのような広範囲の現象を、特に『制止、症状、不安』(Freud 1926d)以後、含むことになる。これらの情緒のうち、フロイトによって詳しく研究されることになるのは、そのごく一部である。彼はそれらと自我の発達との間に、緊密な関係を確立していく。なぜなら自我はフロイトにとって、まさに情緒の場所だからである。しかしながら、情緒という概念は、「情緒量」という表現に含まれるエネルギー的見地を超えた語義を獲得しているが、いまだに現代の精神分析理論において明確にされたとは程遠いところにある。