うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

アトリエ・カーグと、バンドクラブと、【私はそれほど悲観しない。純金は、いかなる火にも耐え、火によってさらに純化される驚くべき性質をもつ。】



今日のカーグは、予告通り、タケノコを描きました。
ゆうこちゃんは、同じものを配色を変えて、パターンのように描いていました。
 いつもは、アトリエ1と2をお借りするのですが、2しか借りられなかったので、いつもの画用紙サイズになりました。


 おかもっちゃんは、大きな作品が続いていましたので、小さい画用紙だと、物足りず、2枚描かれていました。

 なおきくんは、前回の続きです。

 こばちゃんも、前回の続きです。

 まつおさんは、いつものキャラクターを描かれていましたが、ペンの使い方がうまくなっていました。

 ゆうちゃんは、独特な作品ですね。

 いのうえっちは、珍しく文字がありませんでした。集中されていました。

 りえちゃんは、ニコニコして、新しく購入した、カラフルな色鉛筆で描かれていました。





 バンドは、見学者さんもおられ、ちょっと緊張し、ギターの音量を大分下げました。
ホームに住まれている方は、日中の施設に行くときのBGMに、バンドクラブの曲を編集したCDを聴きながら往復されているので、歌詞を見ないで歌っている方もいました。
 最近、ちょっとリズムが合わないので、どうしたものか?と思案中です。

 ちかちゃんの、サンバホイッスルが、効果的になってきました!
病み上がりのきんちゃんも、バンドには来てくれ、頑張って歌ってくれました。
 2時間バンドとうのは、体力使います。



 本は、早く車を置きに行ったので、マックで時間まで読みました。
書き込みたいことは、沢山ありますが(笑)今日も早く寝ます(笑)


集団療法の場合には児童の場合と正反対の態度をとったが、精神分析者たちの意見をそうさせたものは何かは、歴史的にも心理的も厄介な問題である。フロイト自身も集団精神療法に適合させるためには精神分析という純金に多少不純物を混ぜて合金にするのも止むを得ないと考えていたし、また集団療法の開拓者たちはほとんど全員が教育分析を受けた精神療法者であったが、われわれ分析者は全体として集団療法の今後の発展を責任をもって荷うのを拒んで来た。これは私見では関係者全員とって損失であり、とくにわれわれ自身の学問的損失だったと思う。この重要な分野で豊かに収穫を得つつあるのはわれわれ以外の人たちである。われわれ精神分析者はおそらく、集団の精神力動を直接臨床的に観察し得るまたとない機会を逸してしまった。〜

〜たしかに、非エディプス的治療関係は患者治療者双方をある種の危険に巻き込むであろう。その危険性は、十分ではないが、多少は判っている。カタルシス的催眠法を捨てて、精神分析学を誕生させた技法に乗り出した時、フロイトは、自分には性質も範囲もほとんど全く未知の危険――今のわれわれには非常にきびしい危険だったと判っている――を引き受けたのだとわざわざ言わなければならないだろうか。たしかにフロイトはこの道に乗り出さなかった方が安全だったから賢明だったろうか。
 むろん一度の成功は以後さらに危険な冒険を企てる正当な理由とならないのは承知している。そのうえ確率の法則からしてもフロイトのような人はまたとなかろうし、いるとしてもわれわれの中のはいそうにもない。しかし、それでは、この確かに危険な仕事を他の治療者グループに委ねるべきだろうか。立派なご忠告はたくさんあるけれども、それにもかかわらず私の意見ではそうするべきではない。

 この危険な仕事を何のためにするのか?できるだけ多数の原始的非エディプス的関係を研究して、その発達を許容し煽動する因子を発見するためであるが、その必然的付随条件をつきとめて危険な域まで発達しないよう制御するためである。それからとくに大切なのは、それを治療的関与の手段と転化することである。教育分析を受けた者である以上われわれ自身の精神的貧困化は目に見えている。 一部の人々は言うであろう、精神地図なき土地の踏み入る冒険を合えておかしても何も発見できないだろう。たとえ何かが発見できるとしてもそれは、われわれの精神分析の命運を賭けるだけの価値があるか否かははなはだ疑わしい、と。私はそれほど悲観しない。純金は、いかなる火にも耐え、火によってさらに純化される驚くべき性質をもつ。われわれの学問の本質が危うくされるなどと恐れる理由がなぜあるのか私には判らない。もしそのさほど価値のない縁かざりが燃え尽きても純金でなかったためであり、かえって将来の世代のためになるのではあるまいか。