うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

2018年から、障がい者政策が変わります --- 岸本 周平 衆議院議員さんのブログよりと、【自閉−隣接モードの防衛】


 朝から事務仕事で自宅と事務所を行ったり来たり(笑)効率の悪い仕事しています。
事務所が狭いので、先客がいると出来ないので、自宅でもできるようにしていますが、どうしても事務所でしかできない仕事もあるので......。
 まあ、自宅の方が集中して出来ますが(笑)
 朝、仕事にかかる前にお茶を淹れました。

 下記の件が、ネットのニュースにあったので、実際にブログを拝見させて頂きました。

《本周平 衆議院議員のブログより》
http://shuheikishimoto.jp/
2018年から、障がい者政策が変わります。
2017年2月2日
来年4月から、障がい者政策が一新されます。
昨年成立した、「障がい者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律及び児童福祉法の一部を改正する法律」がその日から施行されるからです。
詳細は、今、厚生労働省で作業中で、今年の夏頃には政省令が明らかになる予定です。
たまたま、サービスの報酬額なども来年4月から変わりますので、その内容は少し前の3月ごろに発表されるはずです。
少し整理してみます。
まず、障がい者が安心して地域で一人暮らしができるよう新しいサービスがつくられます。週1、2回定期的に巡回訪問し、生活面、体調面などの確認をしてもらえます。
就労定着に向けても、一般就労に移行する際、事業所と家族との連絡調整などのサービスが新設されます。
最重度の障がい者医療機関に入院した時にも、「重度訪問介護」の支援が受けられるようになります。
65歳になるまで、長期間障がい福祉サービスを受けていた方が、65歳になって介護保険のサービスを受ける場合には、1割の利用者負担を国が負担します。
外出の困難な、重い障がいのある障がい児に対して、居宅を訪問して発達支援をするサービスを新たにつくります。
障がい児のいる保育所等への訪問支援の対象に、乳児院児童養護施設を加えます。
人工呼吸器や経管栄養などの必要な医療的ケア児への支援をスタートさせます。
その他、障がい福祉サービスの情報公開制度や、自治体の審査事務などの効率化も目指します。
意欲的な制度が用意されますが、問題は運用です。
利用者さんや事業者さん達も今は、どんな制度になるのか不安でいっぱいです。
実際に、障がい福祉サービスの予算は、年々二けた近い伸び率で増加しています。この10年間で予算規模は2倍の約1兆3千億円になりました。
そのこと自体は、制度を利用する障がい者の皆さんが増えたわけで、喜ぶべきですが、このまま増加していった場合、予算は削られないのか?あるいは、介護保険制度に吸収されてしまうのではないのか?
来年4月までに、厚生労働省と利用者、事業者さんの間に立って、しっかりと安心できる制度運用の橋渡し役を務める覚悟です。
ご質問などがあれば、ぜひ、気軽にお問合せください。
http://shuheikishimoto.jp/wp/wp-content/themes/shuheikishimoto/img/home-cnt-header.jpg


 きれいにまとめられていたのでびっくりしました。
きちんと仕事をされている政治家もいるんですね(笑)

《障害者総合支援法の見直しの基本的な考え方と今後の取り組み》

平成27年12月14日に開催された社会保障審議会障害者部会(第79回)において、「障害者総合支援法施行3年後の見直しについて」の報告書が提示されました。

報告書の中で「障害者総合支援法」の見直しに関する基本的な考え方が、<3つの柱>として整理されています。


<3つの柱>

1.新たな地域生活の展開
2.障がい者のニーズに対するよりきめ細やかな対応
3.質の高いサービスを持続的に利用できる環境整備 

 少し古いですが、現在も生きているようです。

 下記に現在の状況の概要がいくつか出ています。
粘り強く、順々に開いてください。
https://www.wel.ne.jp/feature/column/article/sougoushien/1.html



 バタバタの中、本とギターはマイペースにこなしました(笑)
第11章は、中々、生々しかったので、沢山アップさせて頂きましたが、あと一回、自分の為にも(笑)アップさせて頂く予定です。第12章に入りました。


【自閉−隣接モードの防衛】
 自閉―隣接モードで生み出される防衛は、早期の自己のまとまりが基礎を置く、境界づけられた表面感覚や規律正しいリズムの連続性を、回復させることに向けられている。分析時間の中で、心理学的な成熟がどの程度のものであれ、患者は一般に、髪の毛をいじったり、貧乏ゆすりをしたり(カウチに横臥していても)、唇、頬、耳たぶをなでたり、一連の数字をつぶやき、歌い、描いては復唱したり、はたまた天井や壁の対称的な幾何学的図形に集中したり、カウチの隣の壁に指で形を描いたりするような行動で、経験の感覚「平面」の復元を試みた。そのような行動は、自分をなだめるために自閉形態を使っているものと考えられる。
 分析の時間の合間では、患者はよく、長時間自転車に乗り、ジョギングをし、プールを何往復も泳ぎ、そして食べ吐き儀式を行い、揺れ(時にロッキングチェアに腰掛けて)、頭を打ち付け(しばしば枕に向かって)、何時間もバスや地下鉄に乗り、車を運転し、自分の頭やコンピューターのプログラムにある数字や幾何学的図形のシステムを維持する(そして常に完璧を目指すよう努めて)等の、律動的な筋肉の活動によって、身体のまとまり感の無さに持ちこたえ、あるいは回復させようとするのである。これらの活動の絶対的な規則正しさは、不安を和らげる過程には必須なので、他の活動を優先することはできないし、その気もないのである。
 ビック(Bick,1986)は、皮膚表面のまとまりが崩壊していく感覚の代わりになるものを人が作り出そうとする方法を記述するために、「代理皮膚形成」という表現を使っている。よく人は、自分自身の表面のまとまった状態を蘇えらせるために、対象表面に付着している感覚経験を使おうとするものである。
 メルツァーとその同僚は(Meltzer et al.,1975)、解体の不安を和らげるための対象への防衛的付着に言及するために、付着同一化という用語を導入した。たとえば模倣となるものまねは、対象の表面をあたかも自分自身の物であるかのように使うために活用される。自閉隣接モードでは、対象表面の断片を自分自身の機能しない表面に貼り付けることで、解体不安を防衛しようとする。


 R夫人は分析の退行した段階で、自分の顔をむしるのに夢中になった。彼女は思い出せない悪夢の恐怖で、重い不眠症になっていた。徐々に彼女の顔はかさぶたで覆われ、彼女はこれをむしっていた。「むしること」が分析の時間におきているとき、患者は明らかに過度の不安状態にあったにもかからわず、「全く何の考えもありません」と言ったのだった。
 R夫人は、カウチの隣のクリネックスの箱からティッシュ紙片を取り出して、彼女自ら作り出している顔の傷に貼り付けた。(その時間の終わりには、これらのティッシュを何枚か余計に、家に持ち帰っていった。)分析のこの時点では、私には、自己破壊願望や、私に向けられた敵意置き換えが、この活動の中心にあるとは思えなかった。私は彼女に告げた。私の考えでは、彼女は自分には皮膚がないかのように感じているに違いないこと、そして彼女が眠れないのは、眠りについている時は、悪夢という危険に心理的に無防備であると感じているに違いないから、と、彼女が自分自身を私の皮膚(ティッシュ)で覆おうと試みるのは、それが少しヒリヒリ感を和らげるのだろうから、理解できる、と私は言った。
 この介入の後の時間、K夫人は眠りに落ち、私がもう時間ですよと言って彼女を起こすまで、ほとんどセッションの間じゅう眠った。次のセッションのなかで、彼女は面接室で寝ていたときには毛布を掛けてなかったのに、その面接を思い起こすと、ある種のカバーの下で眠っていたという明確な感じを持ったことを話した。K夫人のセッション中に眠ることができる能力は、代理皮膚としての私の使用を拡大し、より象徴化していることを表象している。彼女は、私と分析的設定を象徴的でしかも彼女自身をくるむ、手ごたえの感じられる媒体として使っていた。このように、彼女は充分に覆われてまとめられていると感じると、ようやく安心して眠れた。



 この節を締めくくる前に、性的願望と攻撃的願望の葛藤による不安を扱うため打ち立てられた防衛という観点から得られた理解を、自閉−隣接形式の防衛という概念が補足するにちがいない、2つの症候学を簡単に述べたいと思う。まず第1に、しばしば強迫的マスターベーションは、感覚の統一性が失われる感じを避けるために、表面感覚の強められた経験を生み出す目的に役立つのである。たとえばある女性の患者は、意識的な性的空想なしで、毎日、数時間もマスターベーションをしたものであった。オルガスムが目標ではなかった。オルガスムが生じた時には、それは「生きていてまとまっていると」感じられる患者の一日のうちで唯一の部分に終止符を打つ。招かざる「あっけない結末」として経験された。
 第2に、苦痛で不安を生じさせる先延ばしすることは、触知可能な感覚の縁取りを作り出す目的に役立ち、患者はそれを背景にし自分自身を規定しようとする。「締め切り」は、患者の情緒的生活で、持続して感じられる存在となりえる。このような患者は、近づく締め切りを忌わしい圧力として述べ、しかも同時に彼らは、それを絶えず自力で作り出しているようなのである。つまり「締め切り日は、自分の前にある壁のように、立ち向かうべき何かなのである」。
 そのような状況では、ようやく迎えた締め切りは、大抵はつかの間の安堵以上のものを生じることはなく、むしろ患者をパニック状態へと陥れるのである。よくあることだが、そのような患者は任務が達成されてしまうと、たとえば片頭痛、皮膚炎、身体的妄想のいような症状の身体的疾患になる(ほとんどは締め切り前のギリギリ最後の一瞬になって)。そのような症状は、締め切りというコンテインする圧力が無い中で、表面感覚を維持しようとする努力の代用として、理解できるのである。