うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

犬は喜び.....と、【人生の早期にその核がちゃんと護られていたら、「偽りの」自己なんて必要ないんです。】


 昨日の夕方も、雪がちらついていましたが、朝は薄っすら雪化粧していました。
寒さにもめげず、ひーひー王子は、いつも通り興奮気味で走りだし


 ねこさんは、暖かいホットカーペットの上で、寝ていました。
本当に冷えますね......。



 今日は、喘息の薬をもらいに行きましたが、もうスギ花粉に鼻が反応していたので、アレルギーの薬も頂きました!
毎回、血液検査があり(笑)肝機能は良い方向に向かっていますが、甲状腺の方は、まだ少しだけですが、橋本病気味のままでした。暖かくなれば、復活すると思われます。
 まあ、どちらも病的ではないので、経過観察とのことでした。






 受診待ちに結構本が読め、リトル先生の本が読み終わりました。
最後の最後まで、勉強になりました。
 日本の精神分析家でも、最近の発達障害には、クライン派の概念や技法が役立つと言っておられる方が居られるのは、心に触るということを、精神分析はしているからだと、個人的には思っています。心の触り方にマニュアルなんて作れませんが、個々の支援者が、個々の利用者さんに最適な、心の触り方を考えて行くのが、本当の仕事のように思います。それは、リトル先生が言われるように、予測不能な方々には、簡単なことではありませんが.......。


 下記は、本当にそう思います。その核をどうやって見つけるか?良い師に巡り合うしかないのでしょうか? それは本を読む事でも持つことが出来るように思いますが。
『自分の中に核がありさえしたら、それは何からも影響はうけはしません。』



 下記は、早期にはなくても、それに気づくことが出来るように支援させて頂くのが、自分たちの仕事だと思われます。
ウイニコットの「偽りの自己」や、エスター・ビックの「第二の皮膚」を思い出しました。
『人生の早期にその核がちゃんと護られていたら、「偽りの」自己なんて必要ないんです。』





第13章 対談:Margaret Little/Robert Langs
Little:わたしの考えでは、米国の分析医たちが知らないのは、表面に見えている病んでいる部分は実は最も健康な部分である場合がとっても多いし、表面に見えている「健康な」部分が実はとても病んでいるということです。



 Langas:ぼくには貴方の仰っている意味がわかりますけど、もうと説明してくださいませんか。



 Little:じゃ、ある患者さんのことをお話してみましょう。彼女は外界にうまく適応しているように見えました。とても有能で、仕事のできる人でした。彼女は、自分のことをこんなに言いました「わたしの中に在るの、在るってことは分かっているの、何からも影響をうけない、それ」そしてさらに、「わたし、とっても病気だって知ってるの、だから、なんでもできるんだっていう防衛をこしらえてるの」て言ったんです。わたしの役目は、彼女が自分でその「核」を見出せるように助け、それが今までのように分析作業への防衛じゃなしに、わたしと協力しはじめるように助けることでした。それは、たしかに、そこに在ったのです。



Langs:なるほど、健全さへの可能性、creativityは、その「病んでいる」部分の中にあり、その他は一種の装飾。


Little:そう、Winnicott(1956)が「偽りの自己」って呼んだ(1960)ものです。ここで、ロシアの反体制派で最近ソ連から出国したBukovskyという人の言葉を引用したいんです。わたし、きちんと引用できなくて、意味だけですけど――人々が彼に尋ねました「どんなにして、強制収容所や監獄精神病院で耐ええたんですか? どうやってそこを生き抜いて、しかも自分を失わないで出てこれたんですか?」彼は答えました「自分の中に核がありさえしたら、それは何からも影響はうけはしません」。 人生の早期にその核がちゃんと護られていたら、「偽りの」自己なんて必要ないんです。そのことを再びわたし、自分自身のなかに感じました。けど、自分の仕事のなかでは、いくつかの点で、ずうっと以前にそのことを感じていたのです、そしてそのあと、わたしはWinncottから保護と支持とを得ていたのです。 もちろん、彼もわたしを落ち込ませたことはありました。それも、たいてい酷いものでした。最悪のは、わたしが助けを求めた際、わたし自身が患者に向けて起こしているpsychotic countertransferenceに気づいてくれずに、治療はうまく進んでいるよ、とわたしを慰めてくれたことです。その結果は、わたしがその患者の治療を失敗してしまうし、数年後自分で気がつくまでは、つぎの患者も失敗するわけですから。けど、分析家は例外なく、時々治療を失敗するものですし――オオありがたいこと――万能者になれないし、なっちゃいけないんです。それに、100%成功した分析治療なんてないのです。それはともかく、一言でいって、わたしにとって重要だったのは、Winncottが患者を診る時、その病んでいる様がわかり、しかも同時に健康な部分が分かることだったんです。わたし時々思うんですけど、術語jargnが蔓延することや、「発達段階」の種類がどんどん増えていくことなんかは、万能者になろうとする形の防衛の一部じゃないでしょうか。個々の人のユニークさを否認し、個々の人の持つ奇妙きてれつなambivalenceやparadoxに直面しないでおこうとする防衛の一部じゃないでしょうか。だって、そうしたものは、わたしたち治療者を心細くさせますもの。



Lings:だから、貴方の書かれたものの多くは、極めて、人として事柄に触れておられるだけでなく、jargonを使わないようにしておられるんですね。〜