うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

イメージが広がらないと、うたたね工事進捗状況?と、今日の日中と、【自閉形態と自閉対象】


年末から色々と考えますが、イメージが広がらず、正月用にしていましたが、松の内が終わって茶壺が帰ってきたので、また始めましたが、まだだめでした(笑)ゆっくり考えます(笑)また正月が来たりして(笑)

 うたたねの外壁工事は、本当にもう少しのようで、やっていない場所を探すのに(ショートの利用者さんと土曜日に一緒に探しましたが、中々見つからなかったです)大変でした(笑)
 火災報知器を業務用に変えていて、その工事ももう少しの様子です。配線は終わって、後は報知器をつけるだけのようでした。


 今日の日中も賑やかで、2グループに分かれたり。3グループに分かれたりしました。
おっちゃんの最後の仕事は、池ノ原でした!
 井上さんが久しぶりに行きたいね!で有志で行きました。
みなさん、ここに来ると本当に落ち着かれます。
 点ててくださる先生も大歓迎で、かおちゃんの好きな歌を覚えてくれていました(笑)
色んな催事の案内もしてくれ、崋山会館で絵画と書の展示会をしているとのことでしたが、雨だったので止めました。崋山会館なら明日もやっているでしょうか?
 明日は休みの予定でしたが、遅番に入ってくれと先程、親分から連絡が入りました(笑)
事務仕事が沢山あるので、どっちみち事務所には行くつもりだったので、受けました(笑)


 

 今日は早番で夕方戻って、食事をしながら本を読ませた頂きました。その箇所のアップですが、現場感が非常にでていて生々しかったのでアップさせていただきました。
 自閉形態と自閉対象という言葉とその関係を知ることは、支援方法を考える時に役立ちますね!分かり易く書いてあるので助かります。




第11章 経験の自閉−隣接的側面を分析的に扱うこと
                  トーマス・オグデン
【自閉形態と自閉対象】
 タスティン(Tustin,1980,1984)は、自閉−隣接ポジションでの経験を整理して明確にするための重要な手段となる、2つのタイプの対象と経験を記述した。これら対象との関係性の形式の第1(外部の観察者のみが、外的対象との関係として認識する)は、「自閉形態」(Tustin,1984)の創造である。自閉−隣接モードで生み出された形態は、普通に対象の形態として考えられるものとは区別されなければならない。これら早期の形態は、感覚印象をもたらす、表面か柔らかく触れる経験から生じる「感じられた形態(felt shape)」(Tustin,1986、p.280)なのである。自閉−隣接モードでの形態の経験は、感じられたものの「対象性(objectness)」や「客観的事物性(thingness)」と言う概念を伴っていない。タスティンがそれを記述しているように(Tustin,1984),腰掛けている椅子を臀部に生じる感覚に変換するなら、自閉形態の経験を自力でも作り出せる。この視点からは、生み出された感覚以外に対象としての椅子の感覚はない。その印象の「形態」は各自に独自であって、座席を変えれば変わってくる。
 乳児にとって、自閉−隣接モードで形態を生み出す対象には、自分自身の身体と母親の身体の柔らかな部分と同じく、柔らかな身体的物質(唾液、尿、便を含む)も含まれる。自閉−隣接モードでの形態の経験は、自己のまとまり感や、さらに対象となりつつあるものを知覚するという経験の一端を担うのである。ずっと発達が進んだ段階では、「心地よさ」、「和らげる」、「安全」、「つながり」、「寄り添い」、「優しさ」といった言葉が、自閉−隣接モードでの形態の経験に結びつけられるだろう。 
 タスティン(Tustin,1980)が記述した、感覚経験の最早期の輪郭づけの第2の形式は、「自閉対象」であり、自閉形態とは際立った差異がある。自閉対象は、たいしょうがにゅうじの皮膚に強く押し付けられる際に生み出される、硬く尖った表面感覚の経験である。この経験の形式では、人は自分の表面(ある意味では彼には表面しかない)を、後にようやく名前が与えられることになる、言葉で言い表しようのない危険から自分を保護する硬い外皮や鎧として経験する。自閉対象とは、保護されなければ露出されて脆弱な自分自身の表面に、境界を定めて輪郭線を描き安全を生み出す「縁取り(edgeness)」の感覚印象なのである。妄想−分裂モードと抑うつモード(メラニー・クラインの妄想−分裂ポジションと抑うつポジションの考察についてはOgden,1986参照)において、だんだんと経験が生み出されるにつれて、「鎧」、「殻」、「外皮」、「脅威」、「付着」、「分離性」、「他者性」、「侵入」、「硬直性」、「不貫通性」、「反発」のような言葉が、自閉対象によって作り出された感覚印象の性質に結びつけられる。 
 私は、ロバートという先天的な視力障害がある統合失調症の若者に、何年も集中的心理療法を行った。この作業は、患者が19歳の時に始めたのだが、最初の数年というもの彼はほとんど喋らなかった。この患者は、床、自分の食事、自分の身体の一面を覆う無数の蜘蛛に怯えていると言っていた。彼の、眼、口、耳、鼻、肛門、ペニス、そしてまた毛穴を含む彼のすべての身体開口部に蜘蛛が入り込んでは這い出ると感じていた。彼は私の面接室で、目を強膜だけが見えるように眼窩へ反転させて、震えていたものであった。
 両親、きょうだい、親戚から得られた生活史によると、乳児の時、ロバートの母親の彼の扱い方は、息苦しいほどの過剰な関わりから異常な嫌悪へと気まぐれに変化するというのが特徴であった。彼は何時間も、移動式のベビーベッドに一人で放っておかれた。ベビーベッドの上端の先にしがみつきながら立って、頭をリズミカルに柵に打ち付けて、部屋中をドンドンと動き回っていた。母親は私に、彼が痛みを気に留めないように見えたこと、そして彼の「悪魔のような強情さ」にぞっとしたことを告げた。
 ここで私が焦点をあてようとしている治療期間中に、、ロバートは看護スタッフが励まし、おだて、餌、脅し、といった考えつくかぎりの手を使っても、入浴を拒んだ(彼は治療開始の1年間は、入院していた)。就寝するにもめったに服を取り替えず、髪はベトベトに固まっていた。
 ロバートは強い大衆を放っていたが、それは黙って彼に付添い、面接室から出て行った後でも数時間は残っていた。彼は面接室の柔らかい椅子にふんぞり返ると、詰め物で固くなった背もたれに脂っぽい髪をつけたものであった。私が当時最も意識した転移−逆転移の側面は、この患者に侵入されたと私が感じた有様であった。彼が面接室を去った時に、私は彼からつかの間の休息を得たと感じずにはいられなかった。彼は、私の家具(その家具と私は全く同一化されてしまっていた)にしみ込んでいる彼の体臭という手段によって、文字通り、まんまと私の内側に入り込み、また私の皮膚の下へと入り込んでいるかのように感じた。私はこれらの感情は、母なる内的対象に、痛みを感じながらいやいや侵入される彼自身の感情を、私に生じさせている投影同一化(に無意識に関与していること)への反応であると、ようやく理解したのであった。
 振り返ってみると、患者が無意識に私に注意を向けさせていた経験のある側面を、私は充分に重視していなかったのだと思う。私がロバートに、シャワーで何よりも怖いのはどんなことなのと尋ねた時に、彼は「排水口」という言葉を口にした。私は当初よりも今はもっと理解していると思っているが、それは、ロバートは溶解して、文字通り排水口に流れて行くのを恐れていたということであった。このように彼は、自分自身を自分独自の体臭という感覚に立脚させようとしていたのであり、はっきりと輪郭づけられた視覚イメージを形成する能力がない場合に、それは格別重要であった。彼の体臭は、自分が存在すると(身体感覚を通して)感じられる場所を生み出す手助けをする、心地よい自閉形態の一部であった。彼は、震えることで皮膚感覚を際立たせ、それに頭蓋冠の中へと眼球を反転させることで、視覚的に知覚したぼんやりとした輪郭のない影から、自分を切り離していたのであった。(数年の後に、彼は私に、これらの影から、自分が溺れているように感じたので、「何も見えないことよりひどい」と告げた。)
 私の椅子の背もたれの角に頭を当てることへのこだわりは、彼にある程度の境界性を与えるのに役立っていた。乳児期早期にロバートは、母親から長時間離れ離れにされるという崩壊的な影響に対応して、ベビーベッドの固い角に自分の頭を打ち付けることで、消え行くまとまり感を修復しようと同じように必死になっていたのであった。この早期親から長時間離れ離れにされるという崩壊的な影響に対応して、ベビーベッドの固い角に自分の頭を打ち付けることで、消え行くまとまり感を修復しようと同じように必死になっていたのであった。この早期のの固さとの「関係」は、現実の人間との癒す関係の代用品としての自閉対象の病的な使用の一形式を表わしている。頭を打ち付けたりベビーベッドを動かしたりするリズム的要素は、自閉形態を使うことで自分を落ち着かせる努力として見なすこともできるのである。
 この見地に立つと、ロバートが頑なに入浴を拒否したのは、よく理解できるのである。体臭がなくなることは、彼自身がなくなるのと等価であったのだろう。体臭は、誰か(特別な臭いを持った誰か)であること、どこか(彼が自分の臭いを知覚できる場所)にいること、他の誰か(彼の臭いをかぐことができ、彼をしみ込ませることができ、彼を覚えておくことができる人)にとっての何かであること、の萌芽を与えるものであった。このケースの場合、臭いを自閉形態として使うことは、単に対象の代用品を作り出す努力ではなく、隣接(臭いという触感」)という対象関係の確立を大きな目的とする転移−逆転移関係の1つとして存在するという点で、非−逆転移関係の1つとして存在するという点で、非−病理的と見なされる。