うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

セクシーねこさん?と、花より団子と、『自閉的防衛は、コンテインする乳首や乳房の不在がもたらす死と解体の強い恐怖による苦痛を主に回避するためなのである。』


 昨夜、寝るので電気を消そうとしたら、ねこ小屋の中からねこさんの脚が出ていました。高齢ですが、セクシーでした(笑)
 暖かかったり、寒かったりで体調を崩されている方も居られますので、ご自愛ください。


 うたたねの事務所が使えなかったので、今日は自宅で事務仕事です。
お昼の休憩時、3本100円の団子をパワーズで発見し、一本お薄で頂きました。
織部のお皿は、年末チャリティーに匿名でご寄付して頂いたお皿で、お金を払っていただいた物です。
シッカリしたお皿ですが、中々出番がなかったので使ってみました。


 梅の花も咲いていて、どこかで頂ければ、こんな感じで投げ入れたいなと思っています。
めっくんハウスやサンテパルクに行ったら、見てこようと思いながら、そちらに用事もなく行けていません。
 明日休みになっているので急用がなければ、覗いてきます。


自閉症スペクトラムの臨床』は第9章に入りましたが、先日の箇所を少し遡ってみました。
ビオンの《コンテイン》《コンテイナー/コンテインド》を、自分の為に(笑)復習しておきます。

コンテイン:contain
精神分析家ビオンの概念。乳幼児が死の衝動を外界に投影し、迫害不安に陥るとき、母親は自分の中に激しい攻撃性を投げ入れられることになる。この攻撃性をそのまま乳幼児に返すのではなく、いったん自分の中にコンテインし(ふくみこみ)、乳幼児が受け入れやすい形で返すことで、乳幼児の迫害不安は弱められ、他者に対する安心感が育っていく。

精神分析のプロセスでは、被分析者から向けられる激しい怒りなどを、分析家がそのままぶつけ返すのでなく、いったん自分の中におさめてから、被分析者に受け入れやすい形に変形させてから返すことをコンテインすると言う。

コンテイナー/コンテイン
精神分析、とくに対象関係論の場合は援助関係の基底に母親と乳児の交流をオリジナルなモデルとして置いている。含む、包むという意味を持つコンテインcontainは、ありふれた日常用語の一つであるが、この言葉が精神分析で特別な意味を持つようになったのは、ビオンが分析の二者の交流の性質を【コンテイナー/コンテインドcontainer/contained】(記号化したときとは♀/♂)として表現し始めたことに端を発している。

治療者としての私たちは、コンテイナー(包み込むもの)として、アナライザンド(被分析者)の抱えきれないで心から吐き出している不安や破壊衝動、苦悩を含む考えや空想といったコンテインド(包み込まれるもの)を、私たちのこころに包み込もうとしていくのである。


『タスティン入門』より

『〜認知や思考を焦点にしすぎており、自閉症の感情や情緒の取り扱いを行っていないというところである。確かに行動分析やTEACCHでは学習面や思考形式についてはかなり発達した研究や理論構成を行っているが、感情や情緒については、「パニック・かんしゃくを起こさないようにする」といったぐらいの理解であり、避けるべきものとしてしか見ていない〜』

自閉症の感覚優位や常同行動というのはそれ自体が自閉症児にとって安心をもたらすものであり、それなくしては破滅的な不安・解体的な不安に暴露されてしまうのであり、それを回避するための必死の防衛作用なのである。』

 取り敢えず『タスティン入門』も読ませて頂きます。



第8章 神経症患者における自閉的現象

 〜さて、ビオンが指摘したように(Bion,1957)、パーソナリティの精神病的部分による感覚装置の断片化と投影は、対象の貫通と非嚢化を引き起こし、そして対象は怒りで膨れ上がる。その結果、言葉は言葉としてではなく、まさに患者が表現したように敵対的なミサイルとして経験された。その観点から見れば、私が詳細に述べた患者の急性の嚢胞膨張は、攻撃的な感情や彼女自身の諸部分を母親の乳首、乳房、生殖器、といった彼女の内的対象群の中へと投影する空想によると理解することができ、それらの内的対象群は後に膨れ上がって迫害者となったのであった。ビオンは発達の早期段階、すなわち聴覚以前において、乳幼児が表意文字を使って言葉を作ることがどれほど難しいかを記述している。私の患者が、文字を組み合わせて言葉を作ることができないと言及していたことはこれに関連していて、対象間の連結を攻撃することと、それらの対象を修復する能力を喪失することの両者に起因していた。感覚装置の投影との関連で、さらに混乱した別の患者が、昔風の蓄音機のホーンが彼の話を聞いているという夢を見たのは、興味深いものであった。
 この場合は、聴く能力が投影されていたので、蓄音機が鳴る代わりに聴いていると感じられたのであった。後の段階で、今度は見る能力を投影したために、彼を覗き込んでいる目が真ん中にある乳房を見ているという夢も見た。
 要約すると、自閉的防衛は、コンテインする乳首や乳房の不在がもたらす死と解体の強い恐怖による苦痛を主に回避するためなのである。分析が進展するにつれ、このことは、週末や休暇にあたっとだけでなく、この患者では、私との投影同一化や生まれ出ずに私の中で生きているという空想によって、また固い殻で覆われた対象として私を摂取同一化することで、あるいは栄養を与えつつ同じに解毒もする胎盤のような対象としての私にしがみつくことになる付着同一化によって、これらの不安はこれまで回避されてきた。分析家に与える、このようなぞっとする感情のインパクトは相当なものかもしれないが、それは分析家が一般に自身の分析家や協会と職業上の接触を保持しているという事実から、もっとはっきり言えば協会自体をコンテイナーとして使用することから得た保証で、これまでこういった感情が緩和されてきたからかもしれない。技法的には、分析家の声のトーンに対する患者の敏感さに、患者の声にあるというや患者のムードに対する分析家の等しく敏感だかパラノイアではない注意深さをもって対峙しなければならないのは明らかである。躁病に関する以前の論文の中で、躁病患者が内的空虚感に対抗する防衛としてではなくどれほど絶え間なく喋るかを私は記述した。私がここで説明した患者のタイプは、もちろん同じ程度の障害ではないが、全員とても極めて言葉が達者で、2例は歩けるようになる前にすでに話すことができたと、両親が報告していたのは、注目に値した。発話の早熟な発達や異常発達は、1つには空虚さや非存在という根底にある感情に対する防衛であり、また1つにはこうした原初的感情が理解されずにコンテインされないという乳幼児の不安を、乗り越えるためのようである。心気症的な母親が、彼女自身の不安のためのコンテイナーとしてその乳幼児を使う際に、この危機的状況はいっそう混乱してしまう。いずれしてもある期間は、このような患者によって、話すことは、コミュニケーションの手段というより、むしろ分析家との関係を保持したり避けたりするために、使われた。
 言い換えると、患者はあるレベルではコミュニケーションしているように見えるが、自閉症児の緘黙の局面(mute phase )に相当する非-コミュニケーションも存在していて、コミュニケーションされていないものは、分離の感覚に伴う攻撃的感情だけでなく愛する感情でもあり、そして付随した自身と対象への責任感であるということを、私たちは認識しなければならない。リメンターニ(Limentani,1977)もまた、沈黙する患者のムードや感情を理解することを学ぶことの重要性と、また自分の体験を訓練生や同僚に伝える上での難しさを強調した。このことは前-言語段階の乳幼児が、母親への気持ちや感情を、特に沈黙の世界に独りきりでいる経験を伝えることの困難さと似ているのではないだろうか?
 私の印象では、パーソナリティの中にカプセル化された部分が存在することを認めることで、分析の期間をかなり短縮でき、その上、後の人生に起こるさらなる破綻を防げるかもしれない。人生の早い段階で分析を受けていて、そして加齢の過程において酷く不安定になった数人の患者において、注目に値する重要な特徴がもう1つある。たとえば万能感と無力感、能動性と受動性、大人と赤ん坊、精神病と神経症、思考の素朴さと洗練性はパラノイアとシゾノイド的抑うつ、といった状態の間に繰り返し生じる振動の過程である。振動の分析はうまくいけば、心とパーソナリティをよりバランスが取れた状態へと導き、そこでは正反対どうしの狭い境界が内省的思考のためのより強固な基礎となるように広げられているのである。〜