うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

“布”にまつわる作り手たちが一堂に会する、「布博 in 京都 vol.4」が2月4日から開催と、『安全のリズム』(自閉症スペクトラムの臨床より)


 親分の卒論が『ロートレック』かその周辺か?だったようで、デザインやアート関係の情報が毎日のように入って来ますが、どれも土日なので中々行けません。
 こちらは、夜勤明けに強行すれば行けますが、翌日は早番なので直ぐに帰ってこないと行けないので諦めます(笑)下記がサイトです。
http://textilefabrics.jp/201702/




 先日、京都の友人と今度京都に行ったら会う約束をしたので、用事を作って行こうと思いながら行けていません。土日は無理なので.....。
 その次の週も、アールブリュットの交流会があり行きたかったのですが、カーグの日とぶつかってしまい残念でした。せっかく名古屋で滋賀県の方々と沢山話が出来たのに....と思いました。
 管理者として来て頂きたい方を理事さんが頑張って誘って下さっているので、そしたら自由に動ける時間もできるかなと、期待しています。是非とも来て頂きたい。常に新しい風を入れて、組織が腐らないようにしていけたらと願っています。

 他にも行きたい物が沢山ありますが、仕事と重なり無理ですね(笑)


 今日は休みでしたが、色々あり職員一同電話とメールまみれでした(笑)
職員さん達が動いてくれ、難なく一日を終えることができましたこと、感謝しています。

 年度末に向け、にわかに?仕事が増えて来ました。前もってできる事はやっているつもりですが、何かしら出て来ますね(笑)大分他の職員さんにやって頂いていますが、なぜだかどんどん増えていきます。


 そんなこんなでも何とか読書は少しですが出来ました。
その一部のアップです。言葉にするのが難しいことを、言葉にできているのでびっくりしながら読ませて頂きました。
 メルツァーの『自閉症世界の探求』の解題によると、精神分析の観点からの自閉症理解というのは3つの文脈があるという。一つ目はタスティンであり、自閉の心因論からの理解である。二つ目はアルヴァレズであり、対人関係と発達研究を参照した理解である。そして、三つ目がメルツァーであるとあります。
 その中のタスティンのこの本の中の2つめの章です。この本をもう少しで読み終えるので、タスティンの本を読みたいと思っています。その次はアルヴァレズですね(笑)理解できるでしょうか?不安もあります....。
『「安全のリズム」が生じるために、アリアドネは乳児期に深く根ざした相互的で互恵的な関係を私との間に発展せねばならなかった。そして、その関係の中に厳格な父親的要素を明確にする必要があった。』 この箇所は、ノースカロライナで一緒だった心理職の方が、クライアントさんの乳児から現在までの要所要所の人形を作って、分析的なことを行ったという話をしてくれたのを思い出しました。
 固着点毎の人形を作られて、その時期ごとに焦点を当てて、クライアントさんの投影を受けたり、同一化したり離れたりされていたのだと思われます。支援のヒントになる箇所でもあるのでアップさせて頂きました。
 

《第9章 安全のリズム》
 フランセス・タスティン
【安全のリズム】
  アリアドネの次のセッションに向けて、私が思索的な準備をしていた時に、境界例患者における原初的な心の状態に関するジェームズ・グロットスタイン(James Grotstein,1980)の論文を読み、その中で「乳児は一次的同一化の一次的背景対象から、安全を発達させなければならない」というフレーズに感銘を受けた。「その通り」と私は思い、「アリアドネに欠如しているものは、安全であるという一次的背景対象である」と考えた。(その後、安全の背景に関するジョセフとサンドラーの論文[Joseph Sandler,1960]にも出会った。)
 けれどアリアドネもまた、安全というこの問題を思案していたのか、カウチに横たわるとすぐに、考え込んだ様子でこう言った、「あの、この1週間で安全のリズムを私は開拓した気がします」。彼女の洞察力と、それを説明するために彼女が用いた表現の両方に、私は驚き感激した。私はもっと詳しく教えてくれと彼女にせがんだ。アリアドネは、黒い波についてのセッション後に見た夢を続けて話した。彼女はとても窮屈な空間にいて、「ここから出なければ」とひそかに考えていた。抜け出す道を探し、滑り台を見つけ、そこから滑り降りたのである。しかし、滑っても彼女は安全なところに出られなかった。
 比喩的に言うならば、彼女はフライパンから出たのはいいけれど、火の中に飛び込んだのである。というのも彼女は、極めて邪悪な人たちで溢れた大きなコロシアムにいるのに気づいた。「とてもじゃないけどこの場所を通り抜けられないわ」と彼女は秘かに思う。とはいえ、彼女はひどく怯えていたが、「思い切ってやる(taking her courage in both hands)」(意義深いフレーズ)と言って、邪悪なコロシアムを歩いて反対側へと抜けた。それについて彼女は「安全のリズムを習得したわ」と感謝をこめて言った。個の言い方は、まるで感謝祭の讃歌のように聞こえた。私は彼女にこう示唆した。そっと去っていくといういつものやり方の替りに、恐怖と向き合う勇気をもつことによって、それに立ち向かう手助けとなる資源を、自分自身の中に見いだせたのではないか、と。
 それでは、この「安全のリズム」の起源となりえるものについて考えてみよう。アリアドネが「リズム」という言葉を用いたことは、私のかつての学生が、生後2ヶ月までの赤ん坊の授乳シーンをとって録音テープのことを、私に思い出させた。最初赤ん坊は、母乳を吸ってかつ呼吸をする自分のリズムを、乳房にある乳首から分泌される母乳の脈動するリズムに同期するように調整できない。しかし、赤ん坊の筋肉運動の協調が進歩するにつれて、そして母親が赤ん坊のことをしるにつれて、母と子はお互いに順応し合う。赤ん坊のリズムと母親のリズムから、新たなリズムが発展するのである。それは彼らが一緒に作った「創造物」であった。その学生は、次のように記録の中で述べている。「赤ん坊の口は、乳房にある乳首の周りに安全な密閉封印を形成し、それによって口、舌、乳首、乳房は協働し、同調したリズムが生じるのです。」 
 乳児は、アリアドネの表現を用いれば、「安全のリズム」を発展させる。ブラゼルトン(Brazelton)は、母親と赤ん坊は互いに影響し合い、彼の言う所の「互恵性の覆い(a reciprocity envelope)」を創造すると述べている。幸運なことに人間性というものは柔軟なので、この乳児期の相互に影響し合う状況を、その後の人生でも築くこともできるのである。このことは「乳児転移」が働いているのが了解されている分析状況では特にそうである。原初的な心は、一致性や形式的類似性そして類比性という点で作動している。ある特定の状態では、分析体験は母乳を飲んでいる赤ん坊と似た感じがするほど深く感じられる。
「安全のリズム」が生じるために、アリアドネは乳児期に深く根ざした相互的で互恵的な関係を私との間に発展せねばならなかった。そして、その関係の中に厳格な父親的要素を明確にする必要があった。この父親的要素は詩編23番に暗示されており、根源的なレベルで扱われている。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」を思い出すであろう。〜



アリアドネの悪の感覚】
 自閉症児との作業が、私に気づかせてくれた事実は、最も早期に生じる区別の1つは、「きれい」と「汚い」の区別であるということであった。この区別は、人間が他の動物と共有する生得的衛生的素因に起因しているようである。アリアドネのような自閉症児や強迫観念症患者は、普通の区別の代わりに「きれい」と「汚い」の間に――そしてまた「いっぱいの」と「カラの」、「湿っている」と「乾いている」、「硬い」と「柔らかい」、「明るい」と「暗い」、「強い」と「弱い」等といって他の感覚的状態の間にも――厳格な分裂を発達させた。彼らは、正反対(opposite)な状態と同時にある否定的な(contrary)状態を経験すると、一方がもう一方を完全に破壊してしまうのではないかと恐れるのである。たとえば「乾燥」は「湿った」ものをからからに乾かしてしまい、「硬さ」は「柔らかさ」を完全に破壊し、「暗さ」は「明るさ」をすっかり消してしまい、「弱さ」は「強さ」を完全に弱めてしまう等が挙げられる。
 辞書の定義による「リズム」という言葉は、次のようである。「強弱の要素や反対または異なる状態が規則的に連続するような運動またはパターン」。もっぱら「自分」―中心の限局した習慣の範囲外にある共有されたリズム、という整ったリズムが、相反するものが一緒になっても安全と経験する可能性を与える。だから相反するものが互いを修正したり変形したりできるのである。ここに創造的な交流が生まれるのである。安全のリズムを発展させたので、アリアドネは「悪い」と感じていたことに気づくようになれた。と言うのも、彼女がこの上なく「良い」と感じたことを、悪いものが完全に破壊するかもしれないということを、もはや恐れていなかったからである。これより以前は、彼女の自閉的習慣が、彼女自身の悪い部分であると感じていたものを隠すことによって、「良い」と感じられるようにさせていた。そのような患者は、自分が偽善者であるとよく感じていて、見せかけであると感じることから逃れようと企てて、「全くの誠実」を愚直、無分別に強迫的に試みることで反応し、周囲の人たちとの揉め事に自らを追い込むのである。〜