うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

スライドバーと、『経験の内在化を通して自己が豊かになるような同一化』(自閉症スペクトラムの臨床より)


昨日、夜勤に歩いて入る途中、道にビンが落ちていて(笑)スライドバーに丁度いいやと、拾ってきて(笑)綺麗に洗い、使ってみました。
 オープンDチューニングで、エルモア・ジェイムスごっこ(笑)オープンチューニングは、何故だか気持ちいいのでいつまでも弾いていたい気持ちになりましたが、1時間で止めときました(笑)
 やっぱり細いビンの方が使いやすいかも?です(笑)可愛いビンなので、飾っておきます。

 支援も歩いている感じが(スピード)良いのかも知れません。歩くと、町中で日頃見えない物が沢山見えますので。雑草まで愛おしく見える時があります(笑)





 夜勤明け、マックでコーヒータイムをして?帰宅しました。その時に読みながら打ち込んでいた箇所です。

『吸綴時に音楽が流れていなくてもそれに合わせて発声し続けるプロセスがダニエルに生じていることを見てとれる。』これって、オペラントですよね!

『そのプロセスは私には、表面的、一時的なものまねというよりも、真の摂取同一化、すなわち経験の内在化を通して自己が豊かになるような同一化であるように思える。』真の摂取同一化が出来るように支援できればいいのでしょうね。やるなら個別にきちんとですね。


第7章 人間の家族の中に加わること
マリア・ロウド
〜赤ん坊のダニエルを生後3週で初めて観察した時、授乳が終ったところで母親の膝の上に横たわっていた。目は閉じられており、乳首を吸うことなく口に咥えたままにしていた。観察者は、穏やかで調和した雰囲気であると感じた。クラッシック音楽が流れていた。そのとき、落ち着いて静かなままだった音楽が、活気のあるピアノソロへと変わった。ダニエルは目を開けずに、音楽と同じくらい元気よく口を吸うように動かし始め、リズミカルに頭も動かしていた。母親は自分の指を彼の口に入れて、彼をおっぱいから離した。彼は母親の指を勢いよく吸い、腕や足を動かし、声を出した。



ダニエルは、環境のリズミカルな生気に、まるでそれが彼の母親の持つ特徴であるかのように反応したこと、そして、そのリズミカルな吸綴は、ジャックとは異なる感覚様式であったが、母親の触覚的なリズムをジャックが採り入れたのと類似していると考えられるかもしれない。私が特に強調したいのは、ダニエルが母親に指を吸った時にそれに伴奏するようにリズミカルに声を出したことである。後の観察で、彼は、乳房であっても自分の手であっても、吸綴に伴って声を出し続けていた。言い換えれば、豊かな情緒を伴った、発達的、協働的なタイプの模倣(この特定の事例では異なる感覚様式にわたっている)から、吸綴時に音楽が流れていなくてもそれに合わせて発声し続けるプロセスがダニエルに生じていることを見てとれる。そのプロセスは私には、表面的、一時的なものまねというよりも、真の摂取同一化、すなわち経験の内在化を通して自己が豊かになるような同一化であるように思える。興味深いことに、ホブソンとリー(Hobson & Lee,1999)は、自閉症を持つ子どもたちは行動の機械的な模倣は可能だが、大人の様式への同一化ができないことを実験で示している。 
私が認識している範囲では、精神分析の文献でこのタイプの発達的な模倣の理論化を試みているのは、ユーゲニオ・ガディーニとジョセフ・サンドラーによるものもにである。ガディーニ(Gaddini,1969)は早期乳児期の模倣が同一化へと発展していくことを示唆した。しかしながら、彼はこれがどのように生じるかを詳細に述べてはおらず、彼の臨床例は、実際は模倣を発達に役立てるというより、むしろ自己と他者の違いを不鮮明にするために用いる患者に関するものだった。
 サンドラー(Sandler,1973)は、私たちが大人になっても保持している反射的・共感的なタイプの模倣を一次的同一化というフロイトの概念に結びつけている。歴史的には、この概念は二通りの意味で用いられてきた。一方では、自己と他者の間の境界が不鮮明にされているタイプの同一化を指しており、現代フロイト派ではこの意味で使われ続けている。しかしながら、フロイトはまた「一次的同一化」という言葉を「一次的」が「早期」という意味に等しいものとして使っている。すなわち、それは「どのような(他者への心理学的備給)より早期に生じる、直接的で即自的な同一化」(Sandler,1923,p.31:1921,pp.105ff)なのである。これは「所与のもの(given)」つまり説明を必要としない真に一次的または原初的なものという性質を持ち、そして、非学習的な新生児の模倣や、私が関心のある人間の家族へ迎え入れられることといった領域をまさしく扱っているように思われる。
 サンドラーは本能的・共鳴的模倣の例として自分自身の経験を挙げている。歩道を歩いている間、前にいる人が躓いたことに気づき、まるで自分ンも躓いたかのように本能的に体勢を立て直した、彼はこのタイプの直接的な反応は情緒的なコミュニケーションで重要な役割を演じているかもしれないと示唆している。より具体的には、それは分析家の無意識が患者の無意識に波長を合わせるやり方である。これは乳児と母親が「右脳から右脳」(Schore,1994)へと共鳴するという、ショアの定式化を先取りしているようである。それは、他者がある行動をするのを見た
時に、自分がそれをした時と同じように発火する、いわゆるミラーニューロンに関する最近の研究とも軌を一にしている。

この現象は共感の生物学的基盤の一つの可能性として援用されてきた(たとえば、Mitrani,2007;Trevarthen,2005;Music,2005参照)。私が先に論じたように、生後2週のジャックの観察は、こうした基本的な模倣的共鳴が、どのようにして分離したものと経験されている母親との間の協働的な互恵性の要素になっていくかを例証している。
 ここからは、臨床素材に照らして模倣のこうした発達的側面の構成要素を解明してみよう。自閉症の子どもたちは模倣されることに反応する。これは彼らへの多種多様な介入プログラムの必須の構成要素を形成しており、精神分析心理療法も例外ではない。しかしながら、彼らは自分自身では、他の子どもがするように自然に、即自的な方法では模倣しない。生後18ヵ月以前に自閉症の信頼に足る診断を行う困難さは、最早期の自閉症を持つ子どもたちの能力についての情報が全体として遡行的に得られるものであることを意味しており、それぞれの赤ん坊の模倣のパターンがその後の診断に仮に関係するとしてもどのように関係するかは明らかではない。それでも、模倣は、自閉症を持つ子どもたちにおいて障害があるか普通でないものとして、診断スケールに含められるほどには広く認められている。
 こうした子どもたちの一次的同一化の能力は、発達的にうまくいっていないところがあるようである。私は大半の臨床家が、自閉症を持つ子どもが、ものまねや演技という文脈よりも、むしろ関係性の文脈で模倣を始めた時に心強く感じることに同意してくれるだろうと思う。この区別に注意を払い、模倣の持ちうる発達的重要性をはっきり理解することがきわめて大切である。たとえば、ドナ・ウィリアムズによる、自閉症を有するという経験についての本は、多くの臨床的発見を確証し、斬新な見識も提供している。彼女は、子どものとき反響言語をもちいているとき、実際にはメッセージを伝えようとしていたことを説明している。つまり、彼女は、「見て!私は付き合えるよ!私もその音を出せるよ!」と言いたかったのである(Williams,1992,p.188)。明らかに反響言語は、他のタイプの模倣のように、ものまねにすぎないとされることが多いが、常にそうである訳ではない。同じく、ドナ・ウィリアムズは、彼女に言われていたことの意味には関心を払っていなかったことも明らかであるが、他の人間がするようなことをする人間として認められるようとしていた。自閉症を持つ子どもとの臨床の仕事は、健常発達においてはまるで自動的にできるように見える、このタイプの模倣が可能になるのに必要な条件を明らかにする上で助けとなりうる。〜