うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

初仕事と、【無意識と意識と前意識】(治療のための精神分析ノートよ


 初仕事は、倉庫の片付けでした!
とりあえず全部出し、必要なものと棄てるものとを分けましたが、あまりにも大量なので、業者さんに来ていただくことにしました。
 5日か6日に取りに来てくれることになりましたので、それまではご辛抱ください!

 片付けていたら、洗濯機が来ました!こちらも仕事をしていたのであまり遠慮しなくて良かったです。
試験運転までしていただけ助かりました。前の洗濯機を最初に使ったのもまりちゃんだったのですが、今回もそうなりそうですね!使い方が分かるでしょうか?設置してくれた方が、簡単ですよと話していましたが.......。

 

 まりちゃんはお母さんと一緒に
 片づけをしていたら、まりちゃん親子が一緒に食べようと、食堂に呼んでくれたので食堂に行くと....。ご馳走が.....。沢山あったので、頂きました!ご馳走様でした。本当に美味しかったです!
夜も豚肉のしゃぶしゃぶをご馳走になり、罰が当たりそうですね....。
 木も沢山伐ったので疲れました.....。
明日はみんなでボーリングに行きます!


 お母さんと一緒にお料理を作っているのを見せていただくと、何だかほっとしますね!



 今、メインに読ませていただいているのは『認知行動療法精神分析が出会ったら』です。こちらはスキーマー療法に入ったら、考え方が総合的でこれは現場に使える!と思いましたが、流れ的に神田橋先生の本をアップさせていただきます。『認知行動療法精神分析が出会ったら』にも重なる部分でもあります。
『いのちの学習を導くのは、いのちの近くから列挙すると「雰囲気」⇒「イメージ」⇒「音声学習」⇒「文字言語」⇒「文字文化」の順である。この学習の流れは、完成の後に必要に応じて逆流する。つまり、矢印が逆向きになる。たとえば、文字言語は「内言語」を介して「疑似音声言語」としていのちの学習につながる。他の矢印についても、実例を想像すると感性訓練になるはずである。』



【無意識と意識と前意識】 (治療のための精神分析ノートより)
 「無意識」の発見者は精神分析ではないが、それを全面に押し出したのは精神分析である。「病」の所在は無意識界にあるとする。
 しかし、精神分析は無意識を意識野に引き出し、意識界で検討し「認識」に乗せることを手続きとする。つまり治療の場は意識界である。そこで取り扱われるのは無意識界に存在する「学習成果」である。ここでもう一度ヒトの学習について考えてみよう。
 遺伝子と環境との相互作用で資質が作られる。資質が状況と「折り合いをつける」学習がそれに続くが、アメーバーなどの手続き学習と同じく無意識裏に進む学習であり、自由連想で直接に意識化することのできない水準である。
 この水準での無意識、すなわちまったく意識が関与することなしに達成された無意識裏の学習は精神分析治療の標的たりえない。これについては愛着障害の項で詳述する。
 いま一つ、意識が関与して達成された学習でありながら、習慣化され自動化されたせいで効率を獲得した無意識界がある。本来は意識界であったものであり、盲導犬のトレーニングなどを見ると、意識的学習が反復練習されて無意識界に定着する必要があることがわかる。「身につく」とはそれであり、人のテニスの学習なども同じである。
 その種の学習成果は、新たな非言語的学習がなされると「出会い」による相互干渉で自ずから修正される。意識界にある間は「身についていない」ので不器用で役に立たない。同時に、それはコトバで命名されることで精神療法の対象たりうるし、「かのような」修正が可能である。
 しかし修正結果は、再び無意識化されても、コトバによる命名というデジタルに邪魔されて「出会い」という相互干渉を妨げられる。いのちの領域へのコトバによる文化汚染の基本形である。精神分析の副作用でもある。
 ヒトが人になるための学習は一言で言うと「文化学習」である。「折り合いをつける」能力を介しての学習である。そのなかのおおきな部分を占めるのが「コトバ文化」である。
 そして、いのちの学習を導くのは、いのちの近くから列挙すると「雰囲気」⇒「イメージ」⇒「音声学習」⇒「文字言語」⇒「文字文化」の順である。この学習の流れは、完成の後に必要に応じて逆流する。つまり、矢印が逆向きになる。たとえば、文字言語は「内言語」を介して「疑似音声言語」としていのちの学習につながる。他の矢印についても、実例を想像すると感性訓練になるはずである。
 精神分析治療で意識化していいのは音声言語以降である。
 イメージは想起されて音声言語で描写されることで文字文化につながる。これはヒトの進化プロセスのフラクタルである。
 精神分析治療が専ら注意を凝らすのは、文字言語と文字文化である。そしてそこでの新たなパターンの学習が最終的にいのちの水準まで到達するか否かは、期待するだけである。
 文字文化に導かれた新たなパターンの学習が自己実現を待ち受けている資質に出会うと感情の噴出が生ずる。「出会い」のフラクタルである。「感情を伴った洞察」が重要視され
る所以である。
 ただし通常の「出会い」は、資質の一部となっている旧学習との出会いであることが多く、いのちそのものとの出会いではないことが多い。グルメ探訪での「醍醐味」との出会いはその一例である。「醍醐味」への陶酔はメタボへの道となり、いのちにとって有害な学習となる。
 認識からの逆流がいのちそのものすなわち音声言語以前の無意識と「出会う」と自律神経を中心とした生理的沸き立ちが生じる。
 ときとして、その沸き立ちが革命的な変化をもたらし、現存する生活機能のシステム破綻をきたす危険さえある。精神分析治療も「浅く・狭く・短く・軽く」から進める心得、革命よりも修正を心得とすべきである。
 ただし、訓練分析の中で革命を経験することは精神分析学と治療へのセンスとを身につける上で必須と言ってよいだろう。それは既存システムの「崩壊」の体感を伴う。崩壊感のそばに微かに開放感が伴うときが最善である。
 逆に開放感と高揚が主旋律である状況では崩壊は無意識裏に生じているのがほとんどであり、個体にとって危険である。そのときの表現形は、精神分析の術語では「躁的防衛」と呼ばれる。崩壊感の「否認」である。
 いま一つ「前意識」がある。「注意を凝らすことで意識化可能な領域」と概念化されているが、治療技術の観点からは「意識と無意識とを連結する領域」と見なすのが有用であり、その活動の中核は夢とイメージと自由連想である。
 極論して「無意識は決してありのままの形で意識化されることはなく、前意識の活動が翻訳して通訳するだけである」と想定すると治療活動が自在になる。
 当然、文字言語で獲得されたパターンや修正されたパターンが無意識へ伝えられる際にも、前意識通訳を介するのであり、用いられるのは音声言語である。デジタル言語をアナログ言語に翻訳するのである。
 いのちと繋がるのはアナログ言語であるから、厳密にはすべての人と人のコミュニケーションはズレるのが理の当然である。そう前提しておくことも治療技術の自在さをもたらす。