夜勤明けで、まりちゃんと渥美までショートの方2名を送らせて頂き、昨日作った門松を運びました。
これでほっと一息しようと思い、うたたねに入ったら
二日にするはずが.....。親分が片付けをしていました.....。
さっさと動かんな!と言われ(笑)あの〜一睡もしていないのですが〜と言いましたが聴く耳持たず(笑)頑張って片付けていました。
まりちゃんと昼食を食べて、取り敢えずカーテンだけ着けて来て一度帰宅しました。
13時に帰宅し15時には年越しそばを食べに、清水庵さんへ皆さんで向かうので、豊橋まで送迎に行きました。少し時間が早かったので、万場調整池の周りを走って良い時間になったら向かいました。
沢山のお客さんが並んでいて、少し待ちましたが何とか食べる事が出来ました。おっちゃんは寒かったので、ゆうちゃんと同じく、豊橋カレーうどんを頂きました。体も暖まり、美味しかったです。
ゆうちゃんは、実家に戻るとブロッコリーをバクバク食べる様になったとお母さんが喜ばれていました。野菜が食べられるようになるのは本当にいいことですね!
来年も皆様にとって、良い年でありますように!
愛知県などに届ける書類を今日中に作成しようと思いましたが中途半端になってしまいました。もう限界なので寝ます(笑)
来年も沢山勉強が出来ますように、と自分の目標を漠然と(もうすでにボーとしているのでw)思いました(笑)
今年最後のアップは、昨日と同じ、神田橋先生の『治療のための精神分析ノート』よりです。こんなに人間の事・いのちの事が好きになれるって凄いですね!
【いのちへの援助vs人への援助】
治療は本来いのちへの援助である。だが、われわれが治療関係をつくる相手は動物としてのヒトであると同時に文字文化の権化たる人でもある。
しかも、文字文化と意識とを獲得した「人」にとって「いのち・ヒト」はもはや主人公ではなく対象であり道具すらである。そのことが治療活動を迷いへ導く。
いのちは複雑系であるとはいえ、その意向は他の生物と共通するので、いのちの意向を尊重しそれに奉仕する援助は確かな指針を持ちうる。進化論としての個体の成長過程のフラクタルでもある。と見なす知恵がそれである。
これに比して、文字文化は恣意性を持ちながらいのちを支配するに至っているので、原理的に「人」への援助は千差万別となる。その個体が属し、その個体を支配している文化が指針となるのだが、同一文化圏で援助を行なっている場合には通常、治療者と患者の文化の意向が類似しているので、まあまあ大きな齟齬は生じないことが多い。
例外的な特殊状況としては、尊厳死、自爆テロ、殉教、ワーカホリック、などの行動の基盤にある信念・信仰などの価値選択のテーマがある。その多くの場面で「人」によっていのちが軽視されている。悲惨である。
だがしかし、われわれが治療関係を作っている主体者である「人」の意向は第一義的に尊重されねばならない。すなわち理解・納得・覚悟・受容という最も「人」らしい選択である。
とはいえ、自らもいのちを生きるものとして、いのちが軽視されているのを見て見ぬ振りはできない。治療者のなかに、文字文化としての「人」尊重と生命体としての「いのち」尊厳との葛藤が生じる。
これが目前の個体が抱えている無意識の葛藤すなわち、「人対いのちの葛藤」とフラクタルの構造を呈す。逆説的に言うと、人尊重は原初葛藤の顕在化・可視化をもたらす。必然である。
もう一つの葛藤がある。われわれが折り合っている「日本文化」という文字文化の中に精神分析という別種の文字文化が浸入してきたことによる文化間葛藤である。これは、治療者側にも被治療者側にもそれぞれの葛藤をもたらす。
これらの葛藤を意識すると一見何だかゴチャゴチャと混乱するようだが、無意識界のゴチャゴチャが意識界に移されたに過ぎない。さらには、「日本文化」と総称されているものも個々人で千差万別であるという気づきに至るという余得がある。
こうした絢爛たるゴチャゴチャを意識界に作りえたとき(自由連想方の完成)にはじめて、「人」による「意向・選択」が価値を持ってくる。この前提を意識においておくと、治療の完成・未完成の度合いを目算する指標となる。ヒトから人に至る進化の過程をフラクタル的に俯瞰しえたとみなしてもよいかもしれない。
意識界に緩やかな混沌が常在し、瞬間・瞬間に「人」による選択が「新鮮に」なされるのが、精神健康の「理想型」である。達成不可能な目標ではあるが、理想型との近さ・遠さで自他の言動を評価し味わうのに役立つ。
【病因・症状・治療】
主として医学が担当する「病」の原因はいのちと環境不和である。原因の一方である環境は二種ある。一つは物質や物理化学環境や他の生物などであり、第二は学習によって身についた文化である。
通常の医療は環境といのちの調和を志向し、調和が得られれば、あとはいのちの自然治癒力に委ねる。
他方、精神分析が当面担当するのは、身についた文化とその外側にある文字文化との不調和である。正確には二種の文化間の不調和がいのちを立ち往生させている状況である。
なぜなら、患者はある時期までほぼ健康に生活してきたのだから、いのちと身についた文化はなんとか調和していたとみなしてもよいからである。
しかし、そのような前提で治療を進めていっても、しばしば、幼児期以来身につけて来た文化といのちとの間に潜在していた不調和、をテーマにせざるをえなくなる。
この順序をあらかじめ想定しつつも、「浅い層から」治療を開始し、なろうことなら、浅い治療段階で一応の終了を図るのが倫理である。
いのちは立ち往生ばかりしているわけではない。置かれている状況と「折り合いをつけるべく」試行錯誤し、既存の学習パターンのストックから役に立ちそうな型を引っ張り出して適応を模索する。その様相が症状である。
人間にあっては症状表出に文字文化がさらなる修飾を加えるので症状の姿は複雑化するが、いずれにしても、症状には「折り合いをつける」を志向するいのちの活動、すなわち自然治癒力の活動が部分的に反映されている。
それゆえ、いのちの自然治癒力やいのちが採用している適応パターンを症状の中に読み取り、それに協力するあるいは活用するのが治療のコツである。「足す・引く」を最小限に留め「リフォーム」を旨とす。