うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

間主観的感性と、夏と、夜勤と、【なにしろ乳児はまだまだ個人としては非存在に近く、大人の横並び生の経験によって非存在から遠ざかっていないからである。そうした非存在への帰還はだから子どもにおいてずっと簡単に起こるだろう。】


本は、間主観的感性に入りました。
こちらも、初学者には凄く勉強になります。
プレエディパルという概念は、なるほど.......って思いましたし、現在はもっと進んでいるのかも知れませんが、この時代も(コフートの)、フロイトの時代とは違った社会通念が生まれていたのだし、現在に至っては.....ですね。
 サリヴァンだけではありませんが、サリヴァンも時代の流れについて、語っていました。


 ひーひー王子との散歩では、夏をまじかに感じられました!



 今日は夜勤です。色々と有りましたが(笑)今日は、いのうえっちが、みなさんが落ち着いてから、ゆうちゃんの雑な(笑)氷作りで、トレイに氷が張っていたのを、自主的に融かしてくれていました。
皆さん、少しずつ成長されています。

 当のゆうちゃんは、みなさんに愛嬌を振りまいていました(笑)
最近、入浴介助の人数が増え、汗だくになるので、最後にシャワーを浴びさせて頂きますが、ここ2日、ゆうちゃんが一緒に浴槽に入ろうと誘ってくれるので、昨日から入っています(笑)。
裸の付き合いは、本当に心がお互いに緩んで、関係がより深くなった気がしています。


 皆さん、入床・入眠されたので、事務仕事のついでにアップしました。






 本は、リトル先生が読み終わりましたが、フェレンツィのアップです。


 下記は、存在がなくなると、命の火が消えてしまうというのを、思い出しました。
自分の周囲にいる方には、きちんと存在を与えて(見られないと存在がなくなるので)いるだろうか?見られないと存在がなくなるので、難しいことはさておき、一緒に過ごす時間をたくさん作らせて頂くようにしています。
『私は、疎ましがられ慈しみなく迎えられた子どもは自ら死にやすいという可能性に注意を促したかっただけである。』



 下記にその答えが書いているようにも思えます。
『愛、優しさ、世話の膨大な投入によって、子どもは両親が子どもの意志にかかわらず子どもをこの世にもたらしたことについて両親を許すところまで導かねばならない。でなければすぐに破壊欲動が活動し始める。』


 夜勤に戻ります!





  私は、疎ましがられ慈しみなく迎えられた子どもは自ら死にやすいという可能性に注意を促したかっただけである。与えられた多くの生体の可能性の一つを早々の退行のために用いるか、もしくはこのような運命を逃れるとすれば、厭世観悲観主義の気配を保持し続ける。 この病因論的仮定は、各年齢における生の欲動と死の欲動についてのよく知られた理論的諸見解のうちのある一つを根拠にしている。人生の出発点の印象深い成長開花に目が眩んで、たった今この世に生まれてきた個人においては生の欲動がはるかに勝っているという見方に傾きがちであった。全般に、生の欲動と死の欲動を単純に補完しあう横並びと想定する傾向があり、その際、人生最高点を人生の始まりに、生の欲動の零度は後の年齢に想定された。今となればこれはそれほど正しいとは思えない。確かに器官とその機能は、人生の始めに子宮の中でも外でも驚異的な量と速さで開花するが、胎児と新生児が保護される特によい条件に恵まれたときに限られる。愛、優しさ、世話の膨大な投入によって、子どもは両親が子どもの意志にかかわらず子どもをこの世にもたらしたことについて両親を許すところまで導かねばならない。でなければすぐに破壊欲動が活動し始める。そしてそもそもこれは驚くべきことではない。なにしろ乳児はまだまだ個人としては非存在に近く、大人の横並び生の経験によって非存在から遠ざかっていないからである。そうした非存在への帰還はだから子どもにおいてずっと簡単に起こるだろう。人生の困難に屈しない「生命力」は、したがって生得的にそれほど大きなものではなく、迎えられた細やかな手当てと教育が身体的、心理的な損傷に対する免疫力をしだいに高めていくことでようやく確立するらしい。だから、中年期における罹患率、死亡率曲線の下降に対応して、成熟期においてようやく生の欲動が破壊傾向と均衡を保つのだろう。〜