うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日の日中と、《生誕時から対象の知覚があるという考えの支持者たち》


 今日の日中は、ドライブで蔵王山に行ったり、うたたね周辺を散歩したり

 うたたね茶会をしたり、お風呂に入ったりで、あっという間に過ぎました!



 日中は、御陰様で何事もなく過ごせましたが、帰宅し夕食を食べていたら呼び出しがあり、現場に直行しました。大したこともなく処理して帰宅しましたが、早朝から21時前まで、今日も沢山働かせて頂きました(笑)
 いろいろあり、飽きない仕事です!

 そんな中でも意地で(笑)『フロイトを読む』を読ませて頂きました。
アップは昨日の続きですが....。
 勉強になりましたが、必要に迫られているので、頭に入るのでしょうね(笑)テスト勉強だけなら表層だけ覚えて直ぐに忘れそうです(笑)
 まあ、使わないと何でも直ぐに忘れてしまいますが!


《生誕時から対象の知覚があるという考えの支持者たち》
 新生児の自我は最初から対象を知覚していると主張する精神分析者たちとしては、自己愛的現象を、リピドー欲動と攻撃欲動の表現として、また対象が自己から分離し異なると知覚される瞬間に打ち立てられる防衛の表現として考える。その結果この第2おグループに属する精神分析者たちは、自己愛的現象を転移関係の今ここhic et nuneにおいて詳しく解釈できると考える傾向があり、分析者との関係で現われる分化や分離の不安を解釈することを、特に重視している(J-M.Quinodoz 1991)。この流れの主な支持者たちの中で、メラニー・クラインと、H.ローゼンフェルトやH.シーガルのようなクライン以後の精神分析者に触れよう。彼らの仕事の一部は、アンドレ・グリーンやオットー・カーンバーグOtto Kernbergに引き継がれている。
 M.クラインにとって、一次ナルシシズム期は存在せず、新生児は誕生後すぐに対象を知覚する。これはおそらく、フロイトとの関係で最もはっきりと彼女の意見が異なる点である。それでもナルシシズムの観念は、彼女の著作の中に存在するが、それは1946年には投影同一化の観念と、更に1957年には羨望の観念とともに現われている。こうした観念によって、ナルシシズムが対象の分離性と差異性の知覚に対する防衛として果たす役割が、新たな仕方で解明された。この見地に導かれてクライン派の分析者たちは、自己愛的「時期」よりむしろ自己愛的「状態」について語るようになる。H.ローゼンフェルト、H.シーガルそしてビオン(1957,1967)、が1940年代の終わり頃から厳密に精神分析の設定を維持しながら精神病患者を分析し始めたのは、、こうした着想に基づいてのことである。その後、彼らの臨床の仕事によって、転移の自己愛的次元の精神分析治療についてのクライン派に特有のアプローチが発展した。
 私は、自己愛転移を分析する可能性に関して大きな影響を及ぼした、H.ローゼンフェルトの根本的な貢献を手短にながら検討することが重要だと思う。ローゼンフェルトは、フロイトが一次ナルシシズムの経験として記載した対象の知覚に先立つ現象を、原始的な型の本当の対象関係と見なすべきであると考える。彼によればナルシシズムは、理想化された対象の取り入れ同一化と投影同一化によって獲得される万能感と自己の理想化に基づく、理想化された対象とのこの同一化は、自己と対象との間の差異や境界の否認に帰着する。「自己愛的対象関係において、自己と対象との間の分離のあらゆる認識に対する防衛が支配的な役割を果たす」URosenfeld 1965:171)のはこのためである、と彼は言う。ローゼンフェルトはまた、自己愛的現象の中で羨望が決定的な役割を持つとしている。生の欲動と死の欲動との間の葛藤に照らして探究を続けた彼は、1971年にリピドー型ナルシシズムと破壊的ナルシシズムの区別を導入する。彼は対象に対する自己愛的なポジションが放棄されるとき、対象への増悪と軽蔑は避けられないものとなると主張する。それは患者が、外的対象に長所があることに気づくと、直ちに屈辱を感じるからである。この恨みが分析されるに至ると、患者は敵意ある転移を克服することが認められる。「そうなって患者は、価値のある外的人物としての分析者に気づくようになる」(1971:173)。しかし、破壊的側面が優勢なときには、羨望は分析の進歩を破壊して分析者を攻撃する願いとして現われる。なぜなら分析者は、生き生きとした良いものの真の源である対象を表象しているからである。ローゼンフェルトによれば、破壊的欲動の強さがどうであれ、増悪と羨望の影響を弱め、それによって患者に対象との良い関係を確立できるように、依存的でリピドー的な部分への接近法を見出すことは臨床において必須である。そこには、対象が否認される自己愛的な位置と、対象が認められて対象と関係する位置との間の、絶え間ない行き来を詳しく分析することによって達成することができる。
 ナルシシズムについてのH.シーガル(1986)の見方はH.ローゼンフェルトのものに近く、彼女は生の欲動と死の欲動の概念が、フロイトの一次ナルシシズム仮説の問題を解決するのに役立つと考える。彼女にとってのナルシシズムは、一部の患者において死を理想化し生を憎むという形をとる可能性があり、患者たちのうちに、対象だけでなく自己自身をも絶滅させたいという願望を引き起こす。この願望は、対象の知覚に対する防衛として現われる。シーガルは、どのようにしてナルシシズムから脱するのかという問いを取り上げている。彼女の意見では、抑うつポジションを「切り抜ける」ことによってのみ、そのような自己愛的構造から脱して非・自己愛的な安定した対象関係を確立するに至る。
A.グリーンはローゼンフェルトが展開した考えを独自のやり方で、特に『生のナルシシズム、死のナルシシズム』(1983)と題した著作の中で再検討した。著作でグリーンは、死の欲動が対象とのあらゆる形態の結びつきに対してもたらす結合解除deliaisonの効果を明らかにし、その効果を死の欲動の「脱対象化機能」と呼ぶ(Green 1986)。彼はまた、精神病において死の搖動が思考作用の「空白」の原因となる、投影活動の消滅や脱備給を引き起こしうることを示す。この概要の最後に私は、カーン・バーグ(1975)の立場に触れておこう。彼はナルシシズムに対する理論的アプローチにおいて、フロイトの見解とクラインやビオンのような対象関係論者の見解を統合しようとしている。カーン・バーグは病理的ナルシシズムの中に、患者の幼年期に固着した特定の構造を見ており、パーソナリティの自己愛的障害は境界パ-ソナリティ障害に似ているが、重症度が異なると考えている。彼は、自己愛的パーソナリティは境界パーソナリティよりもまとまりのある誇大自己を表わすが、にもかかわらずその自己は病理的であり、同一性の拡散を秘めていると考えている。