うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

久しぶりの玉露と、今日の夜勤と、【このような異常な現象は実際にそうなる運命を決める状況が発達の早期にあったことを明らかにしてきた。】


 久しぶりに、玉露を淹れてみましたが、お湯の温度の感覚がなくなっていて(笑)上手に淹れることが出来ませんでした。
明日は、少しは感覚が戻ったので、上手く淹れたいと思っています。
 夜勤に入る前に、事務仕事をやってしまおうと頑張りましたが(笑)送迎の変更で現場に呼ばれ、早めに入ったので、またまた中途半端になってしまいました(笑)
今日は、夜勤なので、合間にやります。


 今日の夜勤は、何かが?とおもっていましたが、凄いことはなく(笑)みなさん仲良く過ごされていました。
普通が一番良いというのを、忘れてしまいがちですね。
 笑顔が一番素敵ですね!そのために働かされ、生かされているように思います。






 本は、早番のお手伝いをさせて頂いた帰りと、学齢児さんのバスを待つ間に読みました。第二部の技法編に入りました!第十一章です。
アップは、少し難しい箇所が続きますが、そこを通らないと次につながらないので(大分、割愛していますがw)、辛抱して読んでいます。
 一次愛だと言っても、なんか勘違いして、自分の下に利用者さんを付けるような支援も、いたるところで見てしまいます。何かを期待してその人に尽くすというのではなく、見返りを求めないから、一次愛だと思われます。
難しい方々でも、きちんと誠実な支援をさせて頂き、本当にその方の深いところまで入っていけたら、本当の関係ができ、対象として認識して頂けます。

 一番最後に出てくる、下記の文章が全てを教えてくれている感じもしました。

『以上の種々の対象への関係の持ち方も生活史から説明できる。』






第三章 リビドーの前性器的編成の理論に対する批判的覚書(一九三五年)
 現在のわれわれの小児性欲発達理論は、フロイトの『性学説三篇』の、それも一九一四年に刊行された第三版に初めてその要点が現れたものであるが、それにしたがえば、性的目標と性的対象関係という二つの発達は平行するものである。最大の快楽をもたらす部分欲動が先導的な部分欲動であって。その満足がその時点での最重要課題となり、その生物学的性質が一義的にその小児の対象関係の形態を決定する。しかし、このことは明言されておらず、暗黙の前提とされている。これによれば、主力力点は、欲動の対象の変遷と、そのつどの源泉とに置かれている。ということは生物学的側面に重点があったということである。どのようにして、なぜ、それらの先導的欲動が交替して現れるのかは、精神分析学では真剣に問題にされたことがなく、当然検討されたことはない。この点にかんしても、われわれの理論が問題を一時棚に上げておいて、生物学が説明を与えてくれるのを待とうとしているのはまちがいない。私がドレスデンで発表した論文もこの傾向に発するものである。われわれの日常の語法もこの影響下にある。すなわちわれわれは「口唇的(あるいは肛門的、性器的)部分欲動」というばかりでなく「口唇的(あるいは肛門的、性器的)愛」という言葉を使っている。
 この平行性が破れるのは、以上の発展順列開始の前にもう一段階を仮定して、これを「多形倒錯」polymorphous−perverseと命名したからである。だが、理論的にいえば、対象関係にはさらに前段階がある、より正確には二つの前段階が存在する。第一は自体愛autoerotismであって、子どもがまだ対象を全く持たない段階であり、次には自己愛narcissismであっては子どもが自己自身の自我を最初の愛の対象とする段階である。このことを踏まえてはじめて、口唇対象関係が非常に初期に観察されるといわれるのであるが、実際には、これと自体愛期との間の線を時間的に引くことは全くできない。われわれはこの種の時間的位置づけの不確実性にしばしば遭遇するとここで言っておきたい。〜





2
  精神分析の実際から始めたい。治療作業中に、疑いもなく自体愛あるいは前性器期愛と診断される現象に遭遇した時には、分析家はどうするのであろうか?
 まず、もっとも豊かな材料である神経症患者の精神分析を採り上げよう。その症状の分析が示すところによれば、その対象関係は完全に健康であるとはいえない。この人たちはその愛の対象と正常な関係に達しようと努めているのに、どうやってもそうでないものが持ち上がってしまう。症状の中にこの「そうでないもの」が明るみに出されるか、さもなくば症状内容がこの「そうでないもの」に対する防衛により決定される。この正常でない関係、性器愛の代用品、すなわち私がかつて言った言い方に従えば「能動的対象愛」の代用品は、分析理論によれば、退行あるいは発達停止とみなされるだろう。すでに述べたように、われわれのこの論考からは、正常の性目標からの偏奇という変異は除外する。もう一つのほうの変異だけをこの論文では論じるのであるが、それは性対象との関係にかんするものである。それには二つの形がある。正常には禁止されている対象を愛する(近親姦)か、愛する態様が正常でないからである。どの症例においても、精神分析治療は、このような異常な現象は実際にそうなる運命を決める状況が発達の早期にあったことを明らかにしてきた。この経験的事実は、固着理論の基礎となった。さらに、リビドーの前性器期体制の理論が生まれたのもまさに、成人においてはたしかに異常となる、この対象関係の研究からであった。
 いっておかねばならないが「固着」fixationという言葉の意味はあれこれと多すぎる。神経症患者が、その発病前の静穏な生活を破壊的した外傷に固着しているようにみえる場合は少なくない。そのような場合においては、精神分析は、その人が、無意識できないにではあるが意図的に、繰り返し、それに似た外傷を、いわば“運動会的に”こしらえつづけていることを明らかにする。別の症例においては、患者は外傷以前の幸福な状況のほうに固着しており、そういう患者の症状は、対象関係のそれ以上の発展が外傷の反復を来たしかねないからというので、それが起こらないようにと患者を防衛する特別の任務を帯びていることがはっきりと証明される。第三の可能性もあって、それは外傷への順応に固着しているとでもいうべきであろうか。そういう人は、大部分「性格神経症」患者だが、ある型の対象関係しか持ちえないのであってのその他はどれ一つできないらしい。以上の種々の対象への関係の持ち方も生活史から説明できる。〜