うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

『北山理論の発見』(錯覚と脱錯覚を生きる)より


『コブのない駱駝』きたやまおさむ著を、夜勤明けのボーとした頭で読み切り(笑)
一気に、『北山理論の発見』(錯覚と脱錯覚を生きる)に入りました。18日に北山先生の講演を聞かせて頂きにいくので、予習の為に読ませて頂いています。
『コブのない駱駝』は、先生の集大成の(というには、ダイジェスト版すぎますが)様な感じがしました。丁度、京都の知人から喪中のはがきが来ていたので、京都を思い出しながら、自分の歴史を振り返りながら本当に一気に読んでいました。



『北山理論の発見』(錯覚と脱錯覚を生きる)は、自分たちが事業を始めた時の思いを改めて、思い起こさせてくれた箇所もあり、気を引き締めながら、18日までに読ませて頂くつもりで頑張ります(笑)その箇所だけのアップです!

 今日も明けで、寝ようか?どうしようか(笑)悩んでいましたが、本を読みたい気持ちが勝ってしまいました。
 大きな事業所にはそれなりの、小さい事業所にはそれなりの役割があるように思っています。

『医局そしてサテライトの病院勤務の構造と、開業の構造は、決定的に異なる。父親の開業場面について北山は「正直言って昔の開業医たちは、僕の父もそうですが、よそ様のうちの嫁としゅうとめの折り合いが悪いのをその間に入っていろりお話を聞いてやっていました。私たちはそんな仕事も引き受けるわけです」と回想している。つまり開業は、いろいろとパーソナルなこと、こまごました設定に関わる。開業臨床の普通の現実がパーソナルだとすれば、フロイト精神分析を創始した背景に、治療関係をパーソナルに考える臨床がある。 
 このことは、最初の論点、パーソナルをパブリックに対比させる発想と一貫性があり、北山が精神分析を選択したことと連続している。精神病院や施設臨床では、その場の先験的な構造によって臨床の出会い方はほとんど決まってしまう。それに対して開業では、治療者はその設定が自分と居場所との関係でその接触が決まる。開業場面はその意味で構造的に脆弱だが、パーソナルな関係でのやりとりが可能になる。』



 『北山理論の発見』(錯覚と脱錯覚を生きる)監修:北山修・編者:妙木浩之・池田政俊
《序章・北山理論の発見》
理論的背景
〜もうひとつの北山の背景は、「開業精神療法」という治療構造だろう。
 この設定は、精神病院や大学病院での医局員として組織化されていく日本の臨床精神医学のなかでは非常に稀なものだったと言える。小此木啓吾が大学の医局員として精神分析をおこなうために、医局から研究日をもらって自宅で臨床をしていたというのは、特別な設定という意味で有名な話しで、実際の臨床に寝椅子を使えないし、力動的な枠組みを維持するための配慮が必要であった。それが彼の「治療構造」という着想の基盤になっている。それに対して北山は、父親が亡くなって北山医院を引き継ぐことになった。
 医局そしてサテライトの病院勤務の構造と、開業の構造は、決定的に異なる。父親の開業場面について北山は「正直言って昔の開業医たちは、僕の父もそうですが、よそ様のうちの嫁としゅうとめの折り合いが悪いのをその間に入っていろりお話を聞いてやっていました。私たちはそんな仕事も引き受けるわけです」と回想している。つまり開業は、いろいろとパーソナルなこと、こまごました設定に関わる。開業臨床の普通の現実がパーソナルだとすれば、フロイト精神分析を創始した背景に、治療関係をパーソナルに考える臨床がある。
 このことは、最初の論点、パーソナルをパブリックに対比させる発想と一貫性があり、北山が精神分析を選択したことと連続している。精神病院や施設臨床では、その場の先験的な構造によって臨床の出会い方はほとんど決まってしまう。それに対して開業では、治療者はその設定が自分と居場所との関係でその接触が決まる。開業場面はその意味で構造的に脆弱だが、パーソナルな関係でのやりとりが可能になる。
 そして、その場でもっとも重要な道具は言葉だろう。構造的な障壁だけで治療は出来ないし、それをどれだけ言葉にできるかが、要因として枢要になるだろう。〜