うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

神戸館年末チャリティー絵画展と、《無私、江戸っ子、生き続けること――「文七元結い」》(『落語の国の精神分析』藤山直樹著より)




 恒例の、神戸館年末チャリティー絵画展が、昨日から始まりました!
準備の日には、夜勤明けで名古屋行きだったので出る事ができませんでした。
 昨日、名古屋から帰って直ぐによらせて頂きましたが、藤岡さんから頂いた、お茶碗などは職員が値付けをし、破格での提供だったので、見事になくなっていました。家元の箱書きがあるお茶碗が200円.....。
 あれば自分が買っていました(笑)
 目の前で絵が3枚も出たので、本当に頭が下がりました。ありがとうございました!

 自分の持ち物の放出品は、手に入れた10分の一の金額でもしっかり残っていました....。去年のクリスマス用に買ったお茶碗は残っていたので(購入した金額の半値)売れ残れば、25日にお薄を点てますね!親分に強制的に出されたものなので(笑)





 昨日、名古屋から帰る途中に携帯に打ち込んでいた箇所のアップです。このブログには落語の根多が全然出ていませんが、ご興味のある方は、この本をお読みください。
 SSRIの部分は、本当に同じ思いです。原発問題も何かあった時に自分達で処理できないことを何故?推進するのでしょうか?環境や人間よりも経済が第1なのでしょうか?今朝のニュースを見ていて思ってしまいました....。

  『落語の国の精神分析藤山直樹
《無私、江戸っ子、生き続けること――「文七元結い」》
〜この問題について、英国の精神分析ウィニコットの言説はとても示唆的である。彼は、出発点にある乳児が、さまざまなニードに対して母親にほぼ完璧に応えてもらうことによって、欲望も思考も象徴も必要のない、つまり、何も考えなくても必要なものが手に入る状態にあることを描き出した。母親のあまりにも適切な供給のせいで、母親という他者は乳児にはかえって見えなくなる。乳児にとって母親という他者はそこにはいない。そして他者がいないということは、自分もいない。つまり誰もいない状態、誰でもない状態に乳児はいる。そこには主体としての人間が誰もいないのだ。主体は空白である。とはいえ、ウィニコットはそのときに乳児が人間として「死んでいる」とは考えていない。それどころか、彼はこの「孤立した」一人ぼっちの主体のない状態こそ、生きた人間存在の中核にある「ほんとうの自己」だと考えている。主体でないこと、何も考えてないこと、何も欲望していないことは「生きている」ことのひとつの形であって死んでいることではない。ところが、乳児に合わせていた母親の環境供給が母親の都合による早すぎる途絶にいたると、乳児はそこであまりにも早く外部と出会うことになり、外部をモニターし外部に反応する部分、自分と世界をマネージする防衛的な部分を発達させなければならなくなる。それが「偽りの自己」であり、こころの「死んでいる」状態はその部分が自己増殖的に肥大し、「ほんとうの自己」とのつながりが絶たれることによって生じるとウィニコットは考えた。 いずれにせよ、患者が望んでいる「楽な」状態は、決して「死んだ」存在状態ではない。彼が楽になりたいのなら、人間として「生きている」状態に戻るしかない。そのためにはともかくも、人間としての自分を包み込んでいる環境としての、生物としての自分を断ち切らないで生き延びる必要があることはまちがいない。〜

〜自殺が、鬱状態、つまり、人間が落ち込んで興味と意欲を失い、悲観的になっている状態と関係が深いのはもちろんである。九〇年代このかた、鬱病という診断の下に精神科の臨床援助を受けている患者は世界的にどんどん増えている。それと軌を一にして新しいタイプの抗鬱剤薬、とくにSSRIというものが開発され、どんどん売れている。その売り上げは驚異的なものだ。全世界でみると、何百億ドル、何兆円単位での売り上げになっている。製薬会社は儲かっている。新薬というものは以前の薬より進歩することにめざして開発されている。臨床治験で既存の薬よりも少しでもいいところがない薬は発売されない。そんなに売れるいい薬が開発され、そんなに売れているわけだから、当然よい効果をもらたらしそうなのに、自殺はいっこうに減らない。少なくとも日本ではそうである。このことは、現在の精神医療における根本的な矛盾だろう。
 私はこの意味で日本の精神科臨床はきわめてまずいところにきていると思う。どうまずいのか、ということについて、私は私なりの明確な考えがあるのだが、それは専門家同士の議論の場で語るべきたろう。ただ、ひとつ言えることは、それは、「鬱病はこころの風邪」などという、想像力の欠如した無知蒙昧なことを口走る輩が同業者に出てきたことと関係しているように思う。鬱病は、風邪のようなほとんどの人があっさり跡形を残さないで治ってしまい、人生の形にまったく影響を与えないような事態ではないのだ。鬱病を経験すると、たとえ治ったとしても、その人の生きる感覚や手触りのもっともパーソナルな部分が根本的に変わってしまうように見えることがほとんどである。わるい方向に変わるばかりでなく、良い方向に変わることもあるが。さらに、なかなか治らない人も少なくない。 
いずれにせよ、薬がいくら進歩しても、それだけでは自殺は減らない。当たり前だろうと思う。薬というものを飲めば死にたくなくなる、という独我論的なモデルで自殺に人間が対処できるとは私は思わない。〜