ギターのピッチが正常に!と、『表層意識の都』より《哲学とはなにか》
昨日、夜勤明け、自分の受診の後、浜松までギターをもらいに行って来ました。
初めて見る、ギターの工房なので、許可を得てから写真を撮らせて頂きました!
元は、東海楽器の工房だったそうです。東海楽器さんはシェクター等一流のギターも作っていましたね。レスポールモデルは、本家よりも良い音が出るので、アメリカでは販売が出来なかった等の武勇伝もあります。
ギターの型枠や
ウクレレの型枠等もありました!
きちんと調整していただけ、弾いていても違和感なく、安心してギターを弾いたのは本当に久しぶりです。
おんぼろギターしかないので、強い見方ができました。
その道の、本当のプロっていうのは、中々いないですね。福祉なんか特にいません.....。
受診の待ち時間は『治療の行き詰まりと解釈』を読ませて頂き大分進みましたが、今日時間を見つけて読んだ『表層意識の都』ではっとさせられた箇所があったので、猛スピードでバチバチ打ち込んで(笑)(いつも誤字脱字だらけで申し訳ありません......)みました。
下記の二か所だけでも読んでみてくさい。
「つまり、哲学は誰にでも開かれていなくちゃならない。インテリ向けの哲学しかできないやつには、ああいう学校では教えられない。哲学にもケース・バイ・ケースってことはあるんだよ。僕は、あの学校に行ってみて分かったんだ。彼らが何を必要としているかがね」
「哲学ってのは、どんなことでも扱うし、誰にでも興味のある問題を扱うんだ。興味が示されないはずはない。だけど、きっかけが必要だからね。僕なんか、毎度授業できっかけを探している。他者論に入っていくと、みんなが興味を示すんだ。いまは、フランスにとって正念場だから、人種問題は。ドイツやオーストリアでは完全な右傾化の様相を呈しているけど、フランスまでそうなりそうな気配だ。君も知っているだろうが、ル・ペン(フランス右派政党の党首)は、最近、移民問題に関する五十か条の提案をした。むろん、あの提案は違憲だらけだが、そういう提案が公然となされるという状況があるんだ。そういう時にこそ、他者論を考えなくちゃなるまい。街頭にこんな危険な言葉が氾濫しているのを見たかい?『フランスを愛せよ、然らずんば去れ』笑っては済まされないよ。若い生徒には、考えることそのものへの欲求がある。その欲求に一定の方向を与えると同時に、物事はいろいろな角度から考えることが出来るんだ、ということを知ってもらいたいんだ」
『表層意識の都』より
哲学とは何か
現代フランスが世界に誇るものの一つに哲学がある。こういう言い方をすると、哲学が輸出品目か何かのようであるが、実際、そういう向きもないわけではない。
二十世紀後半の哲学は、ドイツが戦争でやられたために、特にナチズムの恥辱ゆえに、フランスにその主導権が移った。実在哲学はサルトルに代表され、さらに六〇年代は構造主義の時代、そしてそれが世界各地(とりわけアメリカ)に影響を及ぼし、その勢いに乗ってポスト構造主義の思想が「流行」するという現象まで生まれたのである。パリは、今やファッションの中心であるばかりでなく、思想というモードの中心ともなったのだ。
サン・ジェルマンの某カフェには、「ヌーヴォー・フィロゾーフ(新哲学者たち)」がたむろしているという。すると、哲学スノップが集まる。彼らは若き哲学者たちの近くに席をとり、自分たちも哲学者気取りである。コーヒー・カップから湯気が出る。煙草の煙は思索の跡である。そして、狭いテーブルには、書きかけのノートの脇に分厚い本が燦然と輝く。哲学の歴史が始まって以来の、これは珍現象だろうか。
カフェには、日本人もいる。アメリカ人もいる。いずれも、オペラ通りの免税店を漁る連中より自分たちの方がましだ、という顔つきである。知性への隷属、というにはあまりにナイーヴな何か。
それでは、彼らは単にペテンに引掛かっているのだろうか。気のきたことを言うのが得意のフランス気質に、振り回されているだけなのか。そんなに単純でもないだろう。実は、彼らにも何らかの嗅覚が働いて、それでパリに来ているのである。「これは金になる」という嗅覚ではない。「これは知になる」という嗅覚である。
現代フランスの哲学は、フッサールやハイデガーの焼き直しで、その意味でフランスはドイツに半世紀も遅れている。これは、ある日本人ドイツ文学者の感想である。そういうことであるなら、現代人は古代ギリシア人より二千五百年遅れているわけである。哲学に「遅れている」ということはあるまい。たとえ、現代のフランスでハイデガーが取り上げられようと、彼が生存中のドイツでの取り上げ方とは違うだろうし、それが現代のフランスで取り上げられる時には、ドイツでは問題になり得なかったことも問題になり得るだろう。
しかも、伝統的にフランスは市民の国である。哲学は決して「偉い先生」の専売特許ではなく、市民のものである。一度新しい思想が市民に紹介されれば、市民は真剣にそれに取り組んでみるだろう。そして、それが彼らの意に反すれば、たちまち排撃されるであろう。しかし、時とともにそれが彼らに馴染めば、その時こそ、彼らは一新するのである。このような変化というものは、ドイツには望めそうもない。「フランス人は頑固で、なかなか新しいものを受け付けない。しかし、いったん納得すると、今度は本気で受け入れる」とは長くパリに住む日本人の言であるが、信用できそうである。
確かに、ハイデガーやフッサールなくして、現代フランス哲学は成り立たない。しかし、フランス哲学はつねに応用哲学である。社会的視野というものを、伝統的に備えている。それが、生活とかけ離れたドイツの哲学を日常の哲学にもするのである。これは卑俗的ではない。そもそも、その種の「卑俗」という言葉が、フランス市民社会には見当たらるまい。
最近では、日本でも「時代は哲学を必要としている」と言われ始めているが、現代人が異常な技術の進歩と情報の過多で、何をどう考えたらよいのか分からなくなっていることは何処も同じである。その点では、フランスの教育は進んでいる。と断言できる。つねに過去の古典を現代につなぎ止めることを重視してきたこの国の学校教育は、哲学を文学とともに教育の一環として熱心に教え続けてきたのである。哲学は何の役にも立たないという声もあろう。しかし、フランス人の多くは、現在でも哲学を学問の最高位に位置付けることに躊躇しないだろう(少なくとも、そう願いたいものだ)。「西欧文化の牙城」を自認するこの国では、哲学はいまだに尊敬されているのである。
だから、共和国大統領に哲学的教養がなかったなら大変なことになる。とも言える。テクノクラートが政治を動かす点ではフランスも他と変わらないが、それでも国を代表する政治家は知識人でなければならないし、その知識とは科学技術と文学とを一挙に展望できる哲学的なものでなくてはならないのである。
私の友人で、哲学関係の書物を出版しているオリシス社のダニエル・ビゴ(Le Bigot)という男がいる。出版編集のかたわら、リセ(高校)の哲学教師もしているのである。その彼に最近あったので。いろりお哲学の教育について質問してみた。以下、その時のやりとりの要約である。
「フランスでは、高校の最終学年で哲学を教えるそうだけど、哲学の歴史を教えるのかい?」
「いや、そうじゃない。歴史を教えるより、哲学というものがあるんだ、ということを教えるんだね。ふぁった、生物とか数学とか歴史とか文学とか、そういう学科と哲学は根本的に違うだろ。学科じゃないものがあるってことを、おしえるんだよ」
「君は、週に何時間くらい教えているの?」
「僕の教えている高校は職業校なんだ。つまり、高校のランキングでいえば最低の方だよ。だから、そこの生徒は哲学をあまりやらなくていいんだ。やる気もないしね。それで、週にたった一時間だけ哲学があるんだ……」
「そういう所で教えるのは難しいだろうね」
「つまり、哲学は誰にでも開かれていなくちゃならない。インテリ向けの哲学しかできないやつには、ああいう学校では教えられない。哲学にもケース・バイ・ケースってことはあるんだよ。僕は、あの学校に行ってみて分かったんだ。彼らが何を必要としているかがね」
「何だった?」
「それはね、他者論だよ。他者について、彼らは僕ら以上に真剣に悩んでいるんだ。もちろん、僕だってさんざん苦労して他者との共存を学んでいるんだけど、僕らの日常の問題が他者論なんだ。だって、一クラスにフランス人が何人いるだろう。黒人やアラブ人、それに東南アジア人やインド人に中国人。右を見ても左を見ても、周りはすべて異邦人というわけさ。……それで、迷わずレヴィナスを使ったね、開講のテキストに」
「レヴィナス?そりゃ、難しい。大変な先生だね、君は。……だって、いくらなんでも、難解なテキストを勉強の不得意な生徒に読ませるなんて、無茶だろう」「そりゃ、無茶だ。しかし、哲学の授業ってものは、生徒のレヴェルに合わせてやることは出来ない。むしろ、生徒のレヴェルを哲学にまで引き上げなければ、意味がないんだよ」
「なるほど。……で、どんなテキストなんだ」
「何、とても短いものだ。ほら、これだよ。ぼくが出した本の中から採ったんだ」
ダニエルは一枚のコピーを取り出した。なるほど、短い文章である。しかし、難解であることに変わりはない。以下、そのおよその意味を言うと、
「知る」ということは以外にも考えるということがあるという可能性を取り上げてみたのは、我々の心(精神)は、何よりも、どんな観念よりも先に、まず誰かの近くにいるのだということをはっきり認めたかったからです。人との交わりとか、親しみとかは、「知る」ということとは別のところで表現されます。また、「知る」という事以外の道があるといっても、それは信仰とも違うのです。私が「顔」と呼んでいるところのものを重んじる考え方は、危険な言い方ですが、「心ある生き方(精神的生活)」につながるものです。つまり、人との親しみに生きるということ。複数の存在と共にあること。したがって、誰か「見知らぬ人」と一緒にいること。そこにこそ、人を他人だと認めた上でなおかつその人に対して無関心でいないという態度が生まれるのです。人との交わり、親しみ、誰かの近くにいるということ、これは決して偶然の出来事ではない。もちろん確かな事実に取って代わるような信仰でもない。哲学とは、知ることについての愛であると言われますが、そこでいう「知る」とは「知」でなくて「知恵」のことであり、その「知恵」とは、「人との親しみ」のことではありますまいか。
――エマニュエル・レヴィナス「知ることとは別に(Autrement que Savoir)
「こりゃ、参ったな。こんな中身の濃い文章、何回読んでも分からないよ。こんなものを、初心の者にぶつけて大丈夫かい?」
「むろん、レヴィナスは易しくない。しかし、プラトンなら易しいってこともない。要は、こういう文章が、こういう言語が存在するってことを、まず知らせることなんだ。自分たちが生きている世界を、新しい目で見る。そのためには、新しい道具が必要だ。その道具の一つが、こういう言語なんだよ」
「で、生徒は興味示すの?」
「哲学ってのは、どんなことでも扱うし、誰にでも興味のある問題を扱うんだ。興味が示されないはずはない。だけど、きっかけが必要だからね。僕なんか、毎度授業できっかけを探している。他者論に入っていくと、みんなが興味を示すんだ。いまは、フランスにとって正念場だから、人種問題は。ドイツやオーストリアでは完全な右傾化の様相を呈しているけど、フランスまでそうなりそうな気配だ。君も知っているだろうが、ル・ペン(フランス右派政党の党首)は、最近、移民問題に関する五十か条の提案をした。むろん、あの提案は違憲だらけだが、そういう提案が公然となされるという状況があるんだ。そういう時にこそ、他者論を考えなくちゃなるまい。街頭にこんな危険な言葉が氾濫しているのを見たかい?『フランスを愛せよ、然らずんば去れ』笑っては済まされないよ。若い生徒には、考えることそのものへの欲求がある。その欲求に一定の方向を与えると同時に、物事はいろいろな角度から考えることが出来るんだ、ということを知ってもらいたいんだ」
これで、ダニエルの教師としての情熱が分かった。彼は、只哲学を教えているのではない。哲学の尊厳を示そうとしているのだ。そして、異邦人同士が同じ空間のなかで共存していかなければならない、そういう時代の倫理の基礎を哲学に求めているのである。「哲学でいう智恵とは、単なる知ではなくて、それとは別の、見知らぬ人との近づきのことではないのか」というレヴィナスの言葉が、改めて重みを感じさせた。
「ところで、ダニエル。君の考え方はエコロジカルなようだけど、エコロジーも大事なテーマだろ?」
「いや、待った。エコロジーってのはね、これはエコノミーと同列に扱う必要がある。というのも、語源的に言って、同じエコから来ているんだから、つまり、経済と生態学とは同し根を持っている。そこが問題なんだ」
「というと?」
「つまり、エコロジーもエコノミーも誰のためのものか。人間のためのものなんだよ。一見すると、エコロジーってのは、人間以外の者を大切にする発想のようだけど、そうじゃない。エコノミー中心でやってきた人間が、いよいよその結果が自分自身に跳ね返ってくると分かって、それでエコロジーということを言い出したんだ。エコロジーの根底にはエコノミーの根底と同じ、人間中心主義があるんだね」
「なるほど、エコというのはエゴのことなんだね。……ところで、もう一つ、全く関係なさそうで、関係のあることを尋ねたいんだが……。男性にとって女性は、あるいは女性にとって男性は、他者ではないかね?」
「むろんだ。他者論のなかでも、性の問題は重要なテーマだよ。これを心理学的に扱うだけが能じゃないんだ。ここには、きわめて哲学的な問題があるんだ。男にとって、むろん、女は異質だ。だから、極め付きの他者だよ。ただ、この異質性には、特別な魅力がある。エロスの力だ。そして、そこに落とし穴がある。エロスは異質の二つを一つにするように見えながら、決して一つにはしないからだ。エロスはわれわれに幻想を抱かせるが、他者は、実はいつまでたっても他者なんだよ」
「君は、それを生徒に説明するのか?」
「もちろんさ。だが、あくまでもテキストに沿って。哲学の言語によって。もし、レヴィナスが言うように哲学の知恵が単なる知恵でないのなら、それは他者の尊重に基づく知恵でなければなるまい。哲学は、昔から今まで一つの愛のことだと思うんだが、その愛とはエロスの一種の自己反省だね」
「エロスの自己反省?それは、どういうことなんだ?」
「フロイトも言うようにタナトス、すなわち死の問題だよ。エロスとタナトスは、フロイトに限らず、二十世紀の哲学者が考えてきたことだ。そして、もし他者論というものがエロスに絡んでくるとしたら、結局は死の問題とも絡んでくることになる。……というわけで、すべてがいろいろの方から問われるんだよ。僕の生徒にとっては、今年一年は問いつづけの年になるだろうね」
ダニエルの話はさらに続いたが、ここに全部書き記すことは出来ない。フランス文化は、こういう熱心な教育者の目の輝きにその威厳を保っている、と言えば言い過ぎだろうか。