うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

お寿司じゃないの?と、涼炉と、『分析家の機能における治療的および反治療的要因』


 先日、郵便局に行ったらこんなものが張ってありました!
そばと親子丼!  なんで、そばとお寿司じゃないのか?と思うのは自分だけでしょうか?(笑)海外に送る時の不足分にたす用の切手と書いてありました。
 そば源さんに、こんな組み合わせのメニューがありましたね!
だったらいいのか?と、どうでもよい事が気になった一日でした。



 親分の緑茶を玉露を入れるやり方で入れてみましたが、安物のお茶はそのままの味でした(笑)当たり前ですね(笑)
 オークションに入札していて忘れた頃に落ちていて慌ててしまいました。いつも1,000円とかで落ちないもので、焦りました(笑)

 お抹茶と玉露はどちらが高価なのでしょう?木曜日の受診時にお抹茶を購入しようと思っていたので、悩みます(笑)こちらもどうでもいいことでした(笑)


 夜勤明け、ホームの利用者さんの、アレルギー検査の結果を聞きに行きましたが、インフルエンザの予防接種もあり沢山の患者さんで、1時間半待ちました。
ので、本が沢山読めました。
 段々核心に迫ってきている感がありますね!
自分たちの利用者さん達に、どう利用して行けるか?ですね!
 サリヴァンの本を読んでいる様な気になってしまっていました。
考え方が似ています。

第2章
分析家の機能における治療的および反治療的要因
〜第1章において、私は、患者の心を占めている無意識の感情や願望的空想を患者が言葉や意識的思考にするのを助けるのが精神分析家の主たる治療機能であるという私の信念を示した。こうすることにより、患者の早期対象関係の反復や幼児期に築かれた万能感を用いた防衛が緩和される。徐々に患者はより多くの感情(特にそれら感情によって引き起こされる不安)に耐えられるようになり、種々の葛藤を認識し、それらについて考えることができるようになる。それができるようになるにつれ、自己愛的で万能感的な対象関係においてみられる、内的、外的機能のはなはだしい歪曲の必要性は少なくなる。すでに述べた通り、分析家がこの目的を達成する主な手段は、そのとき患者にもっとも切迫して感じられる無意識の不安に焦点を当て、患者の転移関係の空想を精緻に言葉で解釈することである。
 治療的変化に関する私の転換点となったのは、何度も繰り返し分析過程を歪め傷つけることが不安の防衛であるという病理を有する、最も障害が重く扱いづらい患者であっても、分析家がその防衛を認識することができるならば、患者は自分たちの困難を分析家に伝えようとするのみならず治療的努力に協力する能力を相当程度持っている、と信じるようになったことである。
 患者のなかには、言語的なコミュニケーションと非言語的なものとの双方で、有意義な素材を分析に持ち込むという目のさめるような生き生きとした能力を持つものもいる。例えば、私はスパーヴィジョンにおいて、患者の言うことが分析家に理解されなかった場合、それが、そのセッションのなかで種々の異なる方法で、二度も三度も、四度でさえ繰り返されることがしばしばであることに気づいた。伝えようとするこのような試みは(分析家が患者を理解するのに難渋していたという望ましくない状況においてさえ)顕著である。こういった患者は分析家の失敗にはほとんど憤慨することもなく、素材をより理解しやすい形にしようと試みるようである。彼らは特に、自分たちが、分析家をどのように感じ、考えているかを伝えようとする。そして、他の分析家も気が付いているように、彼らは分析家の側の問題をしばしば生々しくかつ精密に理解しているのである(Searles 1965,1975,Langs 1976)。私は、神経症患者のみならず、この能力のある精神病患者たちを診てきた。彼らは分析家の弱点に十分な耐性を持ち、特にスキゾイドの者は、もちろん、冷たくあしらわれたり理解されなかったりすると、簡単に気持ちをくじかれてすぐさま引きこもる。しかい、そうだとしても、この一群に属する精神病的に退行した患者は、しばしば彼らの要求や観察を、特に非言語的な手段で伝える驚くべき能力を持っていることに私は気づいてきた――もっとも、非言語的な方法が優勢であるからといって、私は患者が黙っていて言葉を使えないなどと言っているのではない。そうではなくて、彼らの言語は時に夢のなかの声のように聞こえるのである。そのような言語は分裂病患者でよくみられ、わかるようになるにはいくぶん時間がかかる。そのことは重篤に障害された精神病患者の行動でさえ、注意深く考えていくと何か意味のあることを伝えようとしていることがわかるという私の主張を例証するものである。

 私の数人の患者からの分析素材によれば、乳幼児期のごく早期から、母親の授乳状況の扱いや乳房に沿うのみならず、全体としての母親の精神状態のいくつかの局面や、幼児に沿って感じていく能力あるいはその能力のなさに彼らは鋭い感受性を持っているように思える。そのような患者はときに、分析家の理解のし損ないをあからさまに批判してくる。分析家がその批判をサディスティックな攻撃だと誤解すると、患者はしばしば分析家より、状況を深く理解できるという自分の能力に罪悪感を抱く。この罪悪感は分析家が患者の正しい観察を受け入れられないことがわかると一層強まり、分析家が患者の批判を無視し続け、患者の観察を分析家に向けられた攻撃と解釈し続けると、患者はばかか子ども扱いされていると感じる。そのような患者のなかには、時には自己のこの能力を乱用し、万能感的、破壊的で勝ち誇ったようになるものがいる。こういった場合、彼らにとって、批判的に知覚する能力と乳幼児の依存性に由来する羨望としての攻撃感情とを区別することは困難であり、分析状況のなかで、彼らの乳幼児期の無力感が再現するのである。多分この混同が乳幼児期母子関係の外傷体験のなかで発達史、罪悪感を患者のなかに創り出し、並外れて敏感に機能する彼らの能力の破壊へと向かい、分析のなかで患者を精神機能が重篤に障害された状態にするのである。しかしながら、そのような患者は、臨床像が精神病的であれ境界例的であれ、分析家により注意深く繊細に取り扱われると予後が良いことを私は見いだしてきた。