うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

手島葵さんのサイズ感と、『パースペクティブ』と『理論の発展』


今日は夜勤ですが、足がなかったので歩いてきました。
途中の公園できれいに紅葉している木があったのでしばらく見てしまいました。
クリスマスソングを探していたら、手島葵さんがヒットし、少し聞いているとニューヨークのブルーノートでみたマンハッタン・トランスファーを思い出し、今の自分にはあの時ニューヨークで聞いたマンハッタン・トランスファーのサイズ感が甦って来、手島葵さんの洋楽のカバーも勢いはありませんが、あの時のマンハッタン・トランスファーくらいのサイズ感で、程よく聞きやすい感じがしました。
自宅から歩いてくる間中、手島葵さんの洋楽カバーを聞いてきました。
特に『Beauty and the Beasthttps://youtu.be/PqZlbN1zt_wが今日はしっくりきました。

 来春のノラ・ジョーンズのコンサートに行けることになり、4月まではこれで生きていけますね(笑)
今から楽しみです!

 寒くなってから体調を崩された方もおられますが、ご自愛下さるよう、お願いいたします。
月末からまた暖かくなるとのことで、体がついていきませんね......。




 今日も日中時間を見つけ、本を少しだけ読ませていただきました。
パースペクティブ』も『アイデンティティ』もすこしだけなら、大人になっても修正できそうですね!
 

パースペクティブ 精神分析の都より)精神分析の体験は、無限につづく宇宙の旅のようなものである。一体どこまで行ったら終りがあるのか、それは、何も修行の年数の問題ではない。「悟り」のように、そこへ到達すべき目標店があるというものでもない。もちろん、分析者が被分析者に「終了」を告げることはある。だが、それは本当の終了ではない。分析の仕事は精神の掃除なのである。掃除をやめてよいということがあるだろうか。ただ、誰かに指導されて掃除をしなくても、自分でやっていける時が来るというだけである。
 私の精神分析の経験は浅く、その内容も貧しいものである。それを卑下するつもりはない。しかし、誇ることはとてもできない。ただ一つ、うれしいことがあったので、最後に記しておきたい。
 そもそも人間は、育った環境によるのか、現象世界を一定の角度から見るようにできているらしい。現象世界をありのままに受け取る代わりに一定のパースペクティブをとおして世界を見ている。
 そのパースペクティブは一定しているがゆえに自分の一部となるのであり、しかもそれが社会的にも認められ、隣人と共有される場合には絶対不動のものとなり、「現実」として固定する。たいていの人は社会に支えられて、この「現実」を疑問視することなく生きるのである。
 だが、時にはこの「現実」が重苦しい、息苦しい、と感じられることがある。もっと別の現実があるのではないか、そういう不安と期待が我々をして飲酒にひたらしめ、歓楽街に向かわしめ、あるいは海外旅行へと誘うのである。もっと深刻な解決策もある。シンナー遊びや麻薬、大小の犯罪、そして蒸発や自殺……。こうした悲惨な解決策は、どれも同じ確信に発しているのである。自分の現実は変わりっこない確信である。そして、この核心は、我々の現実世界を見るパースペクティブが変化しない、ということから来るのである。
 わずかな精神分析の経験で分かったことは、この一見不変のパースペクティブが実は変化し得るということである。これは重要な発見だ、と私は思っている。
 あるとき私は、自分の両親について、兄弟について分析者に話していた。この主題については、もう何度も話したことがあったのである。だが、そのとき驚いたのは、自分がいつしか自分の肉親をそれまでとは違ったところから見ている、と気づいたことである。ほんの少しだけ、パークペクティブが変化したと感じた。それは不思議な感覚である。カメラのレンズの焦点がズレたという実感であり、すべてが少しではあるが各々の位置をズラしたように思えた。
 このパースペクティブの変化はほんのわずかであり、これで全人生に大きな変化が生じたわけではない。しかし、世界全体がもう少しはっきり、もう少し立体的に思えてきたという感じはあった。そして、これが「自由」というものだとも実感した。

 さて、精神分析の場からの思案や感想の記述は、これで終えることにしたい。いまの私は、自分が精神分析の入り口にやっと立ったばかりだと感じている。この道が有効なものであることは疑わないにせよ、そこに限度があることも分かっているつもりだ。ただ、いま自分が必要とするものを満たすもっともよい方法が、他にあるかどうか疑う。「日暮れて道遠し」というが、精神分析の道も遠い。しかし、この道を行けば確実に自分は進んでいけるという確信がある限り、それは何事にも替え難いのである。





『治療の行き詰まりと解釈』は支援にヒントになる箇所がたくさんあります。今日読ませていただいた中で、一番ヒントになりそうな箇所を、皆さんと共有したいと思いアップさせていただきました。

『理論の発展』 (治療の行き詰まりと解釈より) 精神病患者を援助する方法として精神病的な転移を分析する私の試みは、1947年以後、理解が一層深まり、そのそこにある過程や分析かが直面するさまざまの困難について概念化し得るに至った。治療的に機能できるためには、分析家が相互に密接な関係のある二つの理論的過程、すなわち自己愛と投影性同一視とを理解することが必要である、と私は確信するようになったのでる。
 この仕事を始めた当初より、私は自己愛は取り入れ(introjection)の過程と関連しているというメラニー・クラインの与えてくれた示唆に強く影響されてきた。この考えはフロイトの「二次的自己愛」理論(1914)に由来していうようにみえる。しかし、彼女は後にこの理論を否定し、原始的で自己愛的な対象関係としての投影性同一視の理論を発展させた。〜

 〜フロイトは自己愛についての論文(1914)のなかで、分裂病パラノイアのような精神病的な状態では、リピドーは対象や外部世界から脱備給されて自我の中にひきこもると論じている。もっと普通の言葉でいうと、フロイトは、このような患者は自分自身や自分の安全に(とても自己愛的に)とらわれているので、他のだれとも依存したり、意味のある関係を結んだりできないのだと示唆していた。もしこれが正しければ、分析的な治療にはひとつの結末しかない。すなわち、これらの患者は転移関係をもてず、それゆえ改善のための治療状況のもっとも主要な手段を使用できないということになる。私の初期の分裂病患者との経験の多くは、フロイトとは違った見解を私に示唆していた。一見したときの無関心さや死んだような印象にもかかわらず、神経症患者に見いだせるものとは異なった形ではあるが、精神病患者が実際には強力な転移を形成することを見いだしたことはすでに述べた。このことは、私にはフロイトが誤っているという証明になった。〜

〜私は、精神病患者が感じられるものや、不安や苦痛をおこす部分を投影していく過程を思い浮かべた。この過程のもうひとつの特徴は、患者が、自分が対象であるかまたは対象が自分であると感じてしまう程度まで、対象と同一視(投影や取り入れによって)することである。取り入れの場合は、別個のものであるといういかなる同一性も自己と対象の間の境界も存在しないと感じられる程度にまで、対象が自己の一部となる。投影性同一視の場合は、自己の種々の部分が対象、例えば母親の一部となる。その結果、患者は対象の好ましい特質を全て自分も所有していると思うようになる。つまり、事実上、自分が対象となっているわけである。私は、取り入れと投影による同一視は通常同時に生じるという見方をとり、自己愛的で万能感的な対象関係は、部分的には自己と対象が分離したものであると認めることに対する防衛であることを強調した。このような関係のとり方は、欲求不満によって引き起こされる攻撃的で両価的な感情を防ぎ、また同様に羨望や攻撃的感情に気づくことをも防いでいる。もし、彼が対象と全く同じものであれば、人はだれかを愛し依存することができないのと同じように、だれかに羨望を向け、攻撃的になることもできないからである。それゆえ自己愛的で万能感的な対象関係の強さや持続性は乳児の羨望や攻撃的な感情の強さと密接に関連しているようである。そうしたものは分析的な転移関係において再現されるので、究明することができる。例えば、患者の願望が羨望的であればあるほど、分離に直面したり自己愛的で万能感的な対象関係を放棄するのが困難である〜