うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

看板にライトと、額と、ねこさんと、【自己愛的で皮の薄い(敏感な)患者と皮の厚い(鈍感な)患者】(治療の行き詰まりと解釈より)


 新しい看板にライトがつきました!
タイマーでついたり消えたりするようですが、昨日夜勤時(今日か?)明け方までついていたような、ついていなかったような?(笑)


 夜勤明けで(笑)、車屋さんや法務局に行き、神戸館さんに年末チャリティー用の額を頼まれていたので、大家さんに作って頂き、見本を持って行きました。良い感じですね!
 全部で13個作ります。



 何とか無事に帰宅したら、ねこさんが気持ちよさそうに寝ていました.....。
今度生まれ変わったらこのねこさんになりたい(笑)
 書類も一つできたので、今日は寝ます(笑)



『治療の行き詰まりと解釈』はこれで一応終わりしますが、最後まで沢山学ばせて頂きました。
何回か読み返すこともありそうな本ですね!


『分析家が分裂病患者が伝えようと思っていることの重要な部分を理解できないことが、まさに幼児/子どもと母親との間の理解不全を繰り返すことになるために、精神病の患者に破壊的な影響を与えうることを、私はしばしば目にしてきた。この理解不全は、しばしば母親との関係において、患者によって明確に表現されるものであるが、そのような洞察を得てもそれだけでは、患者にはほとんど影響をおよぼさないのである。転移状況のなかでひそかに出現して、しばしば非常な混乱を生じる強烈な逆転移を引き起こす、ある特殊な誤解の反復を、観察し、理解し、克服することは非常に大切なことであると私は思う。』と、下記の『混乱した状態』は、この本の最後のまとめ的な感じが自分にはしました。

『分析家が分裂病患者が伝えようと思っていることの重要な部分を理解できないことが、まさに幼児/子どもと母親との間の理解不全を繰り返すことになるために、精神病の患者に破壊的な影響を与えうることを、私はしばしば目にしてきた。』

 まさしくこういったところを意識して支援ができたら、逆転移(悪い意味での)を起こさなくても良い感じがします。



転移と妄想形成
 現実の歪曲と、幻覚と妄想の形成は、常に頭を悩ませる問題であった。しかし最近10年の経験から、精神療法的な状況設定の許で妄想の形成を観察することに成功した場合には、患者と分析家との間で演じられる転移/逆転移の障害が妄想形成において重要な役割を担っており、私が第12章で示そうとしたように、そのことを明確に抽出することができることを見いだした。このような観察は、精神分裂病状態の進展の心因性の基礎を理解するうえで、また、分裂病精神分析的治療の予後を向上させるうえで、大変示唆に富んでいる。
 分析家が分裂病患者が伝えようと思っていることの重要な部分を理解できないことが、まさに幼児/子どもと母親との間の理解不全を繰り返すことになるために、精神病の患者に破壊的な影響を与えうることを、私はしばしば目にしてきた。この理解不全は、しばしば母親との関係において、患者によって明確に表現されるものであるが、そのような洞察を得てもそれだけでは、患者にはほとんど影響をおよぼさないのである。転移状況のなかでひそかに出現して、しばしば非常な混乱を生じる強烈な逆転移を引き起こす、ある特殊な誤解の反復を、観察し、理解し、克服することは非常に大切なことであると私は思う。〜




混乱した状態
 精神病的な患者の治療を行き詰まりで終わらせないために特に重要と思われる一つの根本的な問題として、不安と混乱した状態の乳児期における起源を理解することの必要性と、そのことの技法上の意義とがある。混乱した状態においては、愛と憎しみ、良い対象と悪い対象がごっちゃになっていて、これが成長しつつある幼児にとって、圧倒的でほとんど解くことができない問題を生み出すのであるが、この問題はほとんどの精神病状態において必ずよみがえるのである。私は、早期幼児期の状態の反復が、(これまでの章でいろいろと論じたように)転移と逆転移のもつれを生じさせるもっとも重要な要因の一つであり、そのもつれのために混乱が起こり、患者は自分の分析体験に蔓延する耐えがたい不安から逃れようとするあまりに妄想形成が起こるのだと信じる。当然のことながら、反復は非常に強い投影性同一視を介して起こる。この方法によって、耐えがたい不安は分析のなかで分析家に伝達され、投影される。ときとしてこうした不安が非常に荒々しく投影されるために、分析家は攻撃されたという感情でもって反応することがしばしばあり、イライラしたり怒りっぽくなることがあるかもしれない。こうした逆転移反応はときとして成功した治療の一部として避けられないのかもしれないが、患者はそれを非常に誇張したかたちで受けとめてしまうために、しばしば妄想の基礎を形成することにつながる。一例として、患者は分析家が自分のために抑うつ的になったり心配したりすることを恐れる代わりに、分析家が非常に誇張したかたちで受けとめてしまうために、しばしば妄想の基礎を形成することにつながる。一例として、患者は分析家が自分のために抑うつ的になったり心配したりすることを恐れる代わりに、分析家が自殺念慮で圧倒されており、おそらく死ぬであろうという、大袈裟な確信を持つ可能性がある。その結果、分析家には自らを、患者の投影に立ち向かっていくことの全く不可能な存在として経験される。この状況では、第12章で記述したように、患者は自分が分析家の生殺与奪の権を完全に握っていると感じるようになり、その苦境を非常に混乱して妄想的なかたちでコミュニケートしようとするかもしれない。〜



自己愛的で皮の薄い(敏感な)患者と皮の厚い(鈍感な)患者 
 自己愛的な患者のなかには、自分たちの自己愛的な構造が、「厚い皮」(thick skin)をもたらしたために、深層心理に対して鈍感になっているものがたくさんいる。こうした患者の治療の行き詰まりを避けるためには、分析において断固とした方針で臨まねばならず、彼らの自己愛的な態度と羨望は直面化されなければならない。特に彼らの羨望が分析と分析家とを脱価値化し援助の必要性を脱価値化する場合は、直面化が必要となる。こうした患者に対しては解釈と直面化を頻繁に反復することが、たとえそのような反復が長期間患者に何のインパクトも与えないように見えても、避けられないことであろう(第4章参照)。最終的に解釈が彼らにどうにか響けば、例えそれが苦痛なものであろうとも、彼らは解放されるのである。
 「厚い皮」を持った患者と対照的に、「皮の薄い」(thin skinned)自己愛的な患者がいる。彼らは過度に敏感であり、毎日の生活と分析のなかで容易に傷ついてしまう。そういう敏感な自己愛的な患者が、分析においてあたかも「厚い皮」を持った患者であるかのように扱われた場合には、ひどい進呈外傷を受けることになるだろう。分析も患者も潰れたも同然となる可能性があるが、特に患者の行動の破壊的な面が分析家の解釈において絶えず反復して取り上げられた場合はそうである。こうした患者の場合、以前よりずっと悪くなって分析を終えることになりかねない。私の経験では、「皮の薄い」自己愛的な患者は、子どものときに繰り返し、自尊心をひどく傷つけられて来ている。彼らは自分のことを絶えず並外れて劣等で恥ずべきもの、傷つきやすいもの、全ての人から拒絶されているものと感じているように思える。思春期以降、彼らは知的能力と身体的運動能力によって、自分の劣等感を克服するのは無理としても、少なくとも隠すことにはしばしば成功し、そのようにして人生における証人と成功とを得ることがしばしばある。一般に彼らは全く問題なく人生を過ごすが、ときおり来す破綻が彼らの自己愛的人格構造の基盤の不安定さを示唆する。このような患者の治療をしてみると、治療者は彼らが非常に過保証していることと、特定の分野で優越性を求めようとする傾向があることに気がつくであろう。その結果、患者の(自分を見くびり侮辱してきたと患者が感じている)親や兄弟に対する復讐心と勝利感はかきたてられるのである。こうした患者たちは、自分の達成したことや仕事に何らかの喜びや誇りを持てたとき、自分体の陽性(positive)の自己愛が、人格構造を安定に保つうえで重要な役割を果たしているということに気づくのである。他方、自己愛の破壊的な側面ばかりが分析において協調され過ぎると、自己愛的な構造は緩和されることなく、ただ単に何か悪いもの、何か恥ずべきもの、何か劣等感を抱くべきものとなってしまうのである。「皮の薄い」自己愛的な患者に対して、彼らの破壊性を強調しすぎることは、そのことが満足のできる対象関係を形成することを抑止したり、難しくしたりする場合には、特別に危険となる。それゆえ、(第7章でエリックの症例を呈示したときに言及したように)このような患者を治療するにあたっては、彼らに自分では認知していない破壊的な自己愛部分との間の葛藤に気づかせることを通して、彼らの自己愛的構造の陽性の側面を維持できるように援助することが、非常に重要であることを私は見いだした。
 私はこうした「皮の薄い」患者の治療が簡単であるという印象を与えたいとは思わない。なぜならば、こうした心的外傷を受け、傷つきやすい人びとは、あらゆる外傷にも失敗にも対処することが、基本的に困難だからである。それゆえ、分析療法において、彼らを辱めたり押さえ込んでしまうような、間違いを犯すことによって、新たな外傷を付け加えることがないように、厳重に注意しなければならない。このような間違いを後で修復することは非常に困難だからである。