うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

全国障害者文化祭の準備と、『メラニー・クライン:精神病の精神分析的治療の基礎』


 今日は、全国障害者文化祭の出品の準備と年末チャリティーの準備を
やらせていただいています。


年末チャリティーの方は、自分の持ち物なので、趣味が偏ってしまっています(笑)
12月までに小さな作品がいくつか考えていますが、果たしてできるでしょうか?
頑張って見ます。



 事務所に行ったら、本が来ていました。今の本が終わったら、がんがん読ませて頂きます。
 そういえば、3月はまだサリヴァンをがんがん読ませて頂いていて、それからクライン、ウィニコット、ビオン等を読み出しました。途中、きたやまおさむ先生等も読ませて頂き(ウィニコットの第一人者的存在なので)、自分の支援の軸は、サリヴァンウィニコット(父性的と母性的と自分の中では感じています)の周辺の理論をその方々に合う様にさせて頂ければ、なんとかなるように感じています。
 本当に一流の方々の言葉は、非常に重たく感じます。


 夕方は、ホームの外食の日だったので、楽しく参加させて頂きました。
たまにはみんなで外食も良いですね!でも、時々行っていましたね(笑)
 賑やかだと皆さん楽しそうでした!


 色んな準備の日?でしたが、何故か一日中眠たくて、シャキッとしませんでした(笑)
取り敢えず、風邪をひかないように暖かい恰好をして隙を見ては、うとうとしていました(笑)本を読んでいるとこれまた気持ちよく、うとうと......。
 こちらも少し前に読ませて頂いた箇所のアップです。



父の名の排除:精神病についての一つの理論的構想
1955年にラカンは『回想録』の英訳に基づいてシュレーバーパラノイアを研究した。そして1955-1956年のセミナー『精神病』(1981)で彼は、精神病の起源を理論化する2つの新しい概念、「排除」と「父の名」を導入した。彼によれば、排除は、或る基本的シニフィアンを「象徴界」の領野の外へと本源的に拒絶することからなり、それは主体の無意識へと統合されることができないので、幻覚の形で「現実界」の中に回帰する。ラカンによれば、精神病では、主体は構造化されるには至らない。それは、父親が子供に対して、子供が同一性を獲得するために、子に名を与えるという、彼が有する父親的象徴的な機能を請け負いつつ介入することができないためである。「父の名」という基本シニフィアンはそのとき、象徴化されるべきものがそうならなかったので排除され、パラノイア性妄想の形で「現実界」に回帰する。言い換えれば、ラカンは、女に変身させられるというシュレーバーの迫害妄想は、父からの去勢の脅威の象徴的性格を息子が感じとれない結果であると考える。したがって脅威は、外的現実からの、すなわち分析にとって接近できない「現実界」からの危険として経験される。ラカンにとって、排除は精神病を特徴づけるものだが、彼は排除を逆向きに変形させることをどう構想するかについては、一度も語らなかった。その結果、精神病の治療に関する彼の立場は、純粋の思弁的なままである(G.Diatkine1977)。




メラニー・クライン:精神病の精神分析的治療の基礎
 M.クラインは子供の精神分析から出発して、精神病の分析の発展を可能にする決定的な臨床的・理論的寄与を提供した。一方で彼女は、妄想分裂ポジションと抑うつポジションの概念を導入することで、精神病に関係する原始的な防衛機制と、神経症に関係する進んだ防衛機制を区別した。他方彼女は、フロイトの考えとは逆に、精神病患者が転移関係を確立し、それが分析可能であると考えた。M.クラインは、精神病的機能が妄想分裂ポジションへの固着および過剰な投影同一化への訴えに基づくと考えていた。彼女は、妄想分裂ポジションには正常な型と病理的な型が存在するとも、投影同一化にも同じく正常な型と病理的な型があるとも予想していなかった。しかし彼女以後、ローゼンフェルト、シーガル、ビオンは妄想分裂ポジションへの固着をそこに見ていたクラインと異なり、彼らは、精神病を、病理的な妄想分裂ポジションへの退行として、この精神病的退行を特徴づけるのは病理的投影同一化であるとしている。原始的対象関係についてのクライン派の着想に対してもたらされた展開は、精神分析技法に大きな衝撃をもたらした。それは精神病的・自己愛的な被分析者ばかりでなく、混乱の少ない被分析者においても、心的な反芻処理(ワークスルー)作業の、本質的な部分を構成している。



シニフィアン

シニフィアンは、フランス語で動詞 signifierの現在分詞形で、「意味しているもの」「表しているもの」という意味を持つ。それに対して、シニフィエは、同じ動詞の過去分詞形で、「意味されているもの」「表されているもの」という意味を持つ。日本語では、シニフィアンを「記号表現」「能記」(「能」は「能動」の意味)、シニフィエを「記号内容」「所記」などと訳すこともある(「所」は「所与」「所要」などのばあいとおなじく受身を表わす。つまり「所記」は「しるされるもの」の意味)。なお、「能記」「所記」は『一般言語学講義』の小林英夫による訳業であり、以降広く用いられたが、現在では用いられることは少ない。


シニフィアン(記号表現、能記) signifiant signifier
「海」という文字や、「うみ」という音声


シニフィエ(記号内容、所記) signifié signified
海のイメージや、海という概念、ないしその意味内容



 シニフィアンとは、語のもつ感覚的側面のことである。たとえば、海という言葉に関して言えば、「海」という文字や「うみ」という音声のことである。一方、シニフィエとは、このシニフィアンによって意味されたり表されたりする海のイメージや海という概念ないし意味内容のことである。また、表裏一体となったシニフィアンシニフィエとの対のことを、「シーニュ」(signe)すなわち「記号」と呼ぶ。