うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

B-SproutのTシャツのデザインと、《母のまなざし》


 今日は夜勤明けで、5時に朝食をいただいたので、帰宅の時間には空腹になり、帰りにサークルKで、3つ100円の大福を買って、お薄を点てました。
 ほっとしてから、今日は寝ました(笑)

 先程、起きました(笑)年末までタイトなスケジュールなので、寝れる時に寝させて頂くようにします。


 我がB-SproutのTシャツのデザインがほぼ、出来上がったようです!
怪獣は晴君作で、文字はまりちゃん作です!
 原図が完成したら、スクリーン型を作ります。
そろそろ、Tシャツが到着するようです。



 昨日、神戸館さんに額を持って行ったら、バザー物品に予約済みの札がついていたり(笑)出品して頂ける作品がいくつか届いていました。
 ありがとうございます!
バンドの撮影時にも、お母さん方が、バザー物品やお米を持って来て下さっていました。こちらもありがとうございました!




 下記は、名古屋に行った時、少し時間が早かったので、オアシス21のマックで、コーヒーを飲みながら、読んでいた箇所のアップです。
 個人的に、ウィニコットの名前が出て来ると、ほっとします(笑)
ここにも支援に役立ちそうなことが書かれていました。
 その後、ラカン鏡像段階の説明が出て来ていましたので、次回にアップさせて頂きます。

母親が大文字の他者なら、福祉職はさしずめ、中文字(こんな言葉があるのか?)の他者になるのでしょうか?その辺をはっきりしてからじゃないと、利用者さん達との関係の作り方が難しくなりそうですね。
 近づきすぎても、離れすぎてもいけない気がしています。

《母のまなざし》
 一般的に共生性と呼ばれるこの段階で、赤ん坊は自分自身の完全性を、母の提供物と身体のなかに見つけようとします。ここでウィニコットは次のような考えを導入しました。赤ん坊と母親をつなぐ母親の対象のなかには、特別なものもある。すなわち母親のまなざしである。この「対象」は赤ん坊にとっての鏡として機能するために、ウィニコットにとって大変重要なものでした。この鏡を使って、赤ん坊は自分自身を母親の顔の中に見いだします。それは視る欲動のきっかけとなるもので、ラカンにとっても同じく重要なものです。見る欲動とは、イヴァナの観察で見たような口や指を使用して展開されるものではなく、目を通して展開されるものです。いまだ一つのものであったイメージの世界と世界のイメージが、ここで用意されます。母の目の中の自分自身のイメージ(ラテン語で瞳孔〈pupil〉という語は、「小さい少女」という意味を持ちます。自分自身の小さなイメージであり、自分を見ている人の瞳孔のなかにみられるものです)は、イメージと自分自身の、分離および同一化を両方とも持ち込みます。つまり、赤ん坊は母親の顔の中にいるのです。


《児童分析についての討論》
質問精神病者には常に大文字の他者との二項関係があり、臨床でもまたこの二項関係が見られます。父の機能というものが存在するが、それは父親に特有の機能ではないとあなたはおっしゃいました。ちと屋でも母親でもこの機能を担えるというあなたの示唆は矛盾していませんか。

ベンヴェヌート:精神病を考える場合には、たしかに乳児の原初的な大文字の他者が問題になりますが、私たちはそれを母親と見なしたりはしません。私たちは常に機能について、たとえば世話をする機能などについて話しているのです。最近では父親が子どもを育てる場合が増えてきていますから、この場合、父親こそが原初的な機能を担うということになるでしょう。しかし、乳房は、あるいは哺乳瓶でもそうですが、対象ではありません。それは機能なのです。子どもが泣き叫ぶと母親は「おっぱいが欲しいのね」と解釈します。子どもが求めているのは乳房ではなく、過ぎ去ってしまった「何か」なのです。