うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

市民館まつりと、太ったウルトラマンと、『投影の役割』(フロイトを読むより)


 今日は、近くの市民館まつりがあり、依頼があって参加させて頂きました。恒例の輪投げで、商品は今年は職員さんが頑張って集めて下さったので、沢山ありました!
 おっちゃんは出禁になったので(サービスが良すぎるとのことでw)少しだけ覗きに行かせて頂きました(笑)
 景品が豪華だったせいか?早い時間から賑っていました!

 たこ焼き・焼き鳥・焼きそば・助六・みたらし団子・唐揚げ等、沢山差し入れも頂き、皆さん沢山食べられたようです.......。

 こんな感じにならなければいいですが......。
先日ネットサーフィンしていて見つけた画像でしたが、凄く拡散していました。みなさん情報を得るのが早いですね!

下記のツイッターからのようです(笑)もったいないですね!
素直に欲しい.....。

岡部 淳也 10月23日
https://twitter.com/JunyaOkabe/status/790105220583821312/photo/1
倉庫を整理していたら、円谷退職後に趣味で作ったデブトラマンが出てきた。
円谷時代、映画を考えていたときに、光の星プラズマスパークタワーのコントロール室に、こんなウルトラマンもと思ってたが、当然無理だった。先程、砕いて廃棄。
pic.twitter.com/HpZp2qntlJ 




 タイヤ交換時に打ち込んでいた箇所のアップですが、下記の部分は歴史を感じました。

 〜しかしながら、シュレーバーについてのこの試論の中でのように、フロイトが傑出した観察力で精神病で働く多くの機制を叙述したにしても、原始的防衛に基づき精神病に属する機制と、抑圧に基づき神経症に属する機制の間をさらによく区別することは、フロイト以後の精神分析者たちの役目となる。こうした区別に基づくことによって、大人および子供の精神病の精神分析的治療に取り組むことが可能となり、この特異的な型の転移と結びついた困難にもかかわらず、治療的成功を収めることが可能となるのである。



投影の役割
 フロイトは、既にフリース書簡(草稿H.1894年1月24日,草稿K.1896年1月1日)および「慢性パラノイア症例の報告」(1896b)の中で、パラノイアの問題に取りかかっていた。これらの初期の論考では、彼は精神病を特徴づけるものとして投影の機制を特に強調し、それを耐え難い内的知覚を外界へと直ちに破棄する、無条件の排出のようなものとして理解している。しかし徐々にフロイトは、とりわけシュレーバーの『回想録』を研究するにつれて、投影が抑圧された内容の外界への単なる排出ではなく、逆に、「外界」から回帰するものは「内側」で破棄されていたものを起源としていると理解する。「内的に抑え込まれた感覚が外に向かって投影される、と言い表すのは正しくなかった。われわれは、むしろ、内的に破棄されたものが外から回帰してくる、と理解する」(同71.岩波11:175)。シュレーバー症例研究以来フロイトは、パラノイアのさまざまな様態の妄想は、抑圧された同性愛に対する防衛に基づいており、投影は精神病の特権ではないと考える。



「現実の脱備給」から「現実の否認」へ
 1911年にフロイトは、シュレーバーパラノイアにおいて外的現実の脱備給が果たす役割を叙述していた。それは彼が1924年に「現実の喪失」の観念を、それから1927年に「現実の否認」の観念を導入するずっと前のことだった。フロイトが1911年にシュレーバー症例において述べた備給の撤収は、患者の周囲の人間たちにも現実世界にも適用される。「患者は、それまで彼の周囲の人間たち及び外的世界全体に向けていたリピドー備給を撤収したのである。それと同時に、彼にとって、いっさいは均しく無意味かつ無関係の存在となった」(同70,岩波11:173)。その時シュレーバーは、世界没落感を経験しているが、フロイトはそれを、愛の喪失として
感じてたこの大規模な脱備給が表す、内的破局のためであり、これがパラノイア患者の妄想を治療への試みであると考えるもう一つの理由である。「われわれが疾患の産物と見なすもの、すなわち妄想形成は、実際には回復の試みであり、再構築なのである」(同71,岩波11:175)。彼はその後しばしば、非常に重要な点としてこれに立ち帰ることになる。



シュレーバー:精神病現象の見事な臨床的記述
 他の概念を初めて叙述するときと同じように、フロイトはまず現象の精神病理の中で明らかにするが、それは精神神経症者にも健常者にも、後者では少なめにだが、存在することが見出されることになる。例えば、現実を否認する部分とそれを受け入れる部分とに自我を分ける「自我分裂」の観念を導入する(1940a[1938])はるか前に、フロイトは類似の現象をシュレーバーにおいて叙述し、一方は妄想的だが他方は現実適応している2つの部分への「パーソナリティの分割」について語っている。「つまり、彼は、一方においてわれわれの関心をたいへん強く引きつけるほどの精巧な妄想構築を展開しているにもかかわらず、他方において、彼の人格を自力で再構築(rekonstruiert)し、個別的な障害を除けば生活上の諸課題に耐えうる能力をはっきりと示している」(1911c:14、岩波11:106)。
 妄想を全体としてとらえてフロイトは、病気が進行すればするほど「迫害者も解体されていく」ことを指摘し、「上方の神」と「下方の神」の間、「フレクシッヒ」と「神」の間、「尊敬すべき父」と「嫌悪される父」の間の分裂の諸様態を叙述している。ここではフロイトははっきりと、パラノイア性精神病に特有な機制である限りでの、「分裂」の現象について語っている。「このような分解(zerlegung)はパラノイアにとってまさしく特徴的である。パラノイアは分解(zerlegen)し、ヒステリーは融合する。あるいは、むしろ、パラノイアは、無意識的な空想の中でなされた融合と同一化をふたたび溶解(Auflosung)
させる、というほうが適切かもしれない」(同49,岩波11:149)。
 しかしながら、シュレーバーについてのこの試論の中でのように、フロイトが傑出した観察力で精神病で働く多くの機制を叙述したにしても、原始的防衛に基づき精神病に属する機制と、抑圧に基づき神経症に属する機制の間をさらによく区別することは、フロイト以後の精神分析者たちの役目となる。こうした区別に基づくことによって、大人および子供の精神病の精神分析的治療に取り組むことが可能となり、この特異的な型の転移と結びついた困難にもかかわらず、治療的成功を収めることが可能となるのである。



※備給(cathexis)

①備給とは、人物や事物に性的な感情・興味・関心を向ける、すなわち
リビドーを向けること。フロイト,S.は、幼児期におけるリビドーは、自己の身体に向けられるとし、その部位により心理性的発達段階を定めた。
性欲動が沈静化している潜伏期である児童期を経て、リビドーは外界の
対象に向けられる。一方これとは逆に、対象から今まで向けてきた興味・関心を切り離し、リビドーを引き上げることを逆備給と呼んでいる。これは臨死患者などがこの世への未練を断ち切って安らかな最期を迎える、いわゆる死の受容における重要なプロセスをされるのである。



②エネルギーが向けられる方向性によって、対象カセクシスとか、自我カセクシスなどとよばれます。この心的エネルギー概念は、実在的な概念ではなく、1つの暗喩として理解されます。
 日常的には、関心や注意を向け、情動的エネルギーを注ぐことを意味しています。
 関心や注意、情動的エネルギーを止めることは「脱備給」「カセクシスの撤収」などと呼ばれます。
 また、抑圧など自我防衛に用いられている心的エネルギーを「逆備給」とよぶこともあります。