うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

作品のバックと、フロイトの自己分析とエディプス・コンプレックスの発見(フロイトを読むより)


作品のバックを色々と考えていましたが、牛王宝印の素敵な文字をみつけたのでアレンジしてやってみようと思っています。(笑)


 今日の日中は賑やかでした!重度の方が複数居られたので、職員4名体勢で、南ジャスのフードコートに行って来ました。
 当たり前ですが、職員はどこに入ったか分からないような食べ方で、申し訳ないと思いましたが、皆さん楽しそうだったので、良かったです!事故もなく過ごせたこと、職員さん達に感謝しています。
 写真は、今回は撮れませんでした(笑)

 今日も遅番が......いませんでした(笑)のでおっちゃんが男性利用者さん達の入浴介助までやらせて頂きましたが、難しい方が今日はいないので、明日の準備もまだできていなかったので、早めに帰らせて頂きました。職員さん達と、シフトをもう少し見直さないといけないねとも話しました。
 明日は、アトリエ・カーグとバンドクラブの日です!二つの文化祭の出演が決まっているので、集中して曲を仕上げます!

 帰宅後、お茶を飲みながら『フロイトを読む』を少しだけ読ませて頂きました。
ほりえもんが、介護職は誰でも出来るので、給料が安いのは当たり前だ!と言っていましたが、全体的にレベルが低いので言われても仕方がないのかも知れませんが、レベルをあげようと頑張っている人間もいるんだよ!といつかは言ってみたいですね(笑)
 そのためには、まずフロイトからでしょうか?

うたたねにも、やっと男性職員が来てくれたと思える方が7月から手伝ってくれていますので(自分より年上ですが)大人の話が出来て、こちらの気分も楽になります。


 こちらも最後の文章は、自己否定とは違いますが、福祉職もいつもそうありたいし、合ってほしい心づもりのように感じました。


フロイトを読む』
『ヴィルヘルム・フリースへの手紙』(1950a〔1887―1902〕)&(1985c[1887−1904])
フロイトとフリースの間の情熱的な友情
 1887年にフロイトは、ブロイアーにヴィルヘルム・フリースを紹介された。フリースは耳鼻咽喉科の専門医であり、ベルリンで開業していた。フリースは、大胆な生物学的・数学的理論に極めて熱心で、自分の仮説に大変な自信があった。この期間中フロイトは、神経症の性的病因という彼の理論のためにウィーンの医学界から孤立しており、彼はフリースに、特別で元気づけてくれる対話の相手を見出した。フロイトとブロイアーの友情は、徐々にフリースとの友情に取って代わられ、何年かの間、彼はフロイトが打ち明ける一番の親友となった。手紙のやり取りに加えて、この2人の友人たちは時々会って「会議」を持ち、自分たちの仮説を対照したり、理論を練り上げたりした。このように、フロイトは「親愛なるヴィルヘルム」を、『ヒステリー研究』の準備から1900年の『夢解釈』出版までの間を通して、彼の発見や科学的貢献がなされた際の、積極的な立会人とした。実際には1897年から、この魅惑は解け始めた。フロイトは徐々に友人の理想化から覚めて、彼らが築き上げた強力な関係にあまり依存しなくなっていった。後に、彼はその友情に含まれていた同性愛的な次元を認めることになる。自己分析を進めるにつれて、フロイトはフリースへの偽装された憎しみと同様に、父親への憎しみを発見した。彼らは1900年に開いた最後の「会議」で、決定的な意見の不一致に至って、フロイトはフリースの周期性理論を批判し、フリースはフロイトが患者の中に自分の考えしか読まないと非難した。彼らの関係は険悪になり、手紙のやり取りはますます散発的になった。そして最終的な決別は、1906年に起きた。それ以後、フロイトはフリースからの手紙をすべて破棄した。もっとも、フロイトは後に、両性性についての自分の考えがフリースに負うことを認めた。



フロイトの自己分析とエディプス・コンプレックスの発見
 1896年の父の死後まもなく、フロイトは概ね1896年から1899年に及ぶ期間、自分自身の精神分析を企てた。フリースへの手紙の中で彼が「自己分析」と呼んだものは、何よりも自分自身の夢の分析に基づいていた。それを通じて彼は、心的生活で夢が果たす役割だけでなく、自分の幼児期に性的なものが持っていた重要性も認識するようになった。「後に(2歳と2歳半の間に)母にmatrem対する僕のリピドーが目覚めました。つまり、母と一緒にライプツィヒからウィーンに旅行に出る機会があり、この旅の途中で僕は母と一緒に泊まったはずですし、裸の(nudam)母を見る機会があったにちがいありません」(freud1985c〔1887―1904〕)。〔1897年10月3日付の〕同じ手紙で彼は続けている。「僕は1歳下の弟(この弟は数ヵ月で亡くなりました)を邪悪な願望と子供の本物の嫉妬で迎えたということ、そして[……]この弟のの死によって良心の呵責の芽が僕の中に残りました」(同268)
 この1週間後に彼は、10年以上経ってから「エディプス・コンプレックス」(1910h:171)と呼ぶことになるものを、自己分析の中で初めて言及する。「僕の自己分析は、実際、ぼくが現存している最も重要なことであり、それをし終えられたならば、ぼくにとっても最も価値のあることになりそうです。〔……〕僕は母親への惚れ込みと父親への嫉妬を、他のどこにでもあるように、自分の中に見つけました。僕はそれを早期幼児期の普遍的な出来事と見なしています〔……〕。もしそうなら、悟性が運命という前提に対して唱えられるあらゆる意義にもかかわらず、〔エディプス王〕の持つ人の心をとらえる力が理解できます」(freud1985c[1887−1904]:270&272)。この手紙でフロイトは、母親の傍らにいる父親の位置を奪う欲望を持つ、少年におけるエディプス・コンプレックスの表の形態にのみ言及している。その後フロイトは、父親の傍らにいる母親の場所を乗っ取る欲望を持つ、女子におけるエディプス・コンプレックスの正の形態を記述し、更にずっと後になって、少年と少女の両方におけるエディプス・コンプレックスの裏の形態を記述することになる。同性の親への同一化に関して責任があるエディプス・コンプレックスの裏の形態が誰にでも同時に存在するという発見によって、フロイトは『自我とエス』(1923b)において、フリースから借りていた心的両性性という考えを空想の次元で適応することができた。事実フロイトの注意を、男性の同一性と女性の同一性において両性性が果たす役割に向けさせたのは、フリースだった。それは、』解剖学的・生物学的水準においてばかりでなく、心理学的次元においても認められる。
 フロイトは自己分析によって、自分自身を知る際の決定的な段階を踏み越え、人間に心の働きについての研究を深めることができたにしても、この種の内省は乗り越えられない内在的な限界に突き当たることに気づいた。彼は、自分の無意識の抵抗を克服し転移を反芻処理(ワークスルー)するために、精神分析者になるつもりの者は誰でも、まず他の精神分析者を頼ることが不可欠であると考えた。最後にフロイトは、この分析が終ってからも、精神分析者はみな自己分析を継続すべきであり、それは一生涯を通して続くだろうと明言している。