うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

今日のうたたねと、イギリスの映画『さらば、青春の光』と『推し、燃ゆ』についての考察と、【 つまり後年のフロイトにとって「外傷は内的幻想の世界での、過度の衝動によって理解され、本当にあった怖い話ではなく、空想の産物としての物語へと変化していくことになった」(妙木、2002,p.48)。】

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 今日は非常食を食べる日でした?お昼は職員も含めて非常食を頂きました!

皆さん(自分も含めてw)美味しそうでした!

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 午後からは男子だけすろーの湯に行きました。

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 消防署の、おそらくレスキュー隊員の訓練用でしょうが、はるくんが俺がひっくり返した!って(笑)。でも、彼なら力がありそう!

  下記はガキの頃、モッズに憧れていたこともあり(笑)、興味深く読ませて頂いた記事です。珍しくこの本を読みたいなと、記事のせいで(笑)、思ってしまいました。

 

 今朝は早めに出て、心理学草案についての論文を読んでいたので、φについて詳しくなりました(笑)。と言うより、ニューロンに見立てたフロイトの理論が少しずつ頭の中に入ってきました。ようやくですが(笑)。難しい.......。

 ころが浅野は、『自己への物語論的接近』第五章の注で、次のように指摘している。じつは、物語論の主唱者たちの自己認識とは裏腹に、「彼らが想像している以上に精神分析的な理論構成と物語論とのまの距離は小さいと言わねばならない」と(p.228)。

  に距離の小ささを感じざるをえないのは子ども時代の虐待を含む広い意味での、「トラウマ的体験」がもたらす「語られてはいないがきわめて現実的な、効果をもったなにか」をめぐる問題に関してである(p.206)。

  こで、フロイトの論文「子供が叩かれる」を思い起こさないわけにはいかない。とともに、フロイトが論じたのは「叩かれる幻想」だったのに対して、浅野が論じるのは現実の「トラウマ的体験」であるという相違点にも気づく。

  ロイトにとって、トラウマ体的体験は、精神分析確立プロセスに関わる微妙な問題であった。「当初フロイトはヒステリー神経症の原因を外傷(トラウマ)だと考えていた。それがエディプス・コンプレックスの発見によって大きく変化する」(妙木、2002,p.47)。

  まり後年のフロイトにとって「外傷は内的幻想の世界での、過度の衝動によって理解され、本当にあった怖い話ではなく、空想の産物としての物語へと変化していくことになった」(妙木、2002,p.48)。