うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

白い彼岸花と、金曜日は晴れなくっちゃ!と、洞察と解釈による含み込み(精神病院への入院の可能性)


 白い彼岸花は、密集して咲いていたので、絡まり合っていて、簡単にはバラバラに出来なかったので、去年と同じように入れました(笑)
 去年入れていた辰砂の花瓶は、年末チャリティーで売れました。
気に入っていた物でしたが、法人に還元できて良かったです。
 仕事が出来ない分(笑)違うところで貢献しないといけません.....。




 今日は金曜日!晴れ男のAさんの力及ばず、昼過ぎまで雨でした.....。しかし、15時前には止んだので、白谷まで散歩に行きました!
 人がいなくて、歩きたい放題(笑)!二人だけで思いっきり歩かせて頂きました。
 海も漣?が綺麗でした!

 遅番さんがいなかったので、12時間勤務になってしまいましたが、一人で夕食より、皆さんと夕食を摂らせて頂いた方が、楽しくて良かったです!
 お役所さん!ご心配なく!、常勤換算は今の所、余裕でありますので大丈夫です(笑)

 帰宅後少し本を読ませて頂き、ギターも少し触りました。
アップは昨日か一昨日読んでいた箇所です。
 最後の方は、本当に現場に必要な事ですね。


洞察と解釈による含み込み
精神病院への入院の可能性
例6・4
この例は食べることを拒んだとき、母親によって家を追い出された患者にかかわっています(第1章、例1・1も参照)。
 ある日、P夫人は制御できない不安状態でセッションにやってきました。待合室から離れないうちに彼女は私に話しかけてきました。彼女はとても口早に、そして、どんどん声を荒げて、ついには、叫びました。彼女が言っていることの要点は、家庭でのものごとを扱いきれなくなっていることでした。彼女は扱っていけないと感じていました。彼女はもはややっていけませんでした。夫は理解してくれませんでした。「夫はただ座ってむやみに穏やかなだけです。どんなにしても彼に私の言うことをわかってもらえそうにもありません」それから、(あらん限りの大きな声で)彼女は叫びました。「良くなることは決してないんです!私はどうしたらいいんですか?あなたも気にかけていないんです」ここで、彼女はクッションを取りあげ、私めがけて投げました。けれども、彼女はただちに私の椅子までやってきて、それを取り戻していきました。彼女はクッションをしっかり抱きしめ、それから、腕の中で揺すってあやし始めました。
 この出来事の間、私は文字通り、椅子のへりに座ったまま、私に何ができるだろうかと思いめぐらしていました。患者は入院する必要があるんじゃないかと私は感じました。しかし、彼女は初めは制御できない自暴自棄とパニックの状態にあったのですが、腕の中でクッションをあやし始め出してからは、より穏やかになり始めていました。

心の中のスーパービジョン:患者が誰かに「言うことをわかって」もらえないことを私は聞いていました。彼女は私にもわかってもらえないだろうとおそらく不安に感じていると私は理解しました。そこで、私がP夫人についてほかに知っていることに照らして、なにが起こっているかを振り返ってみました。というのは、これまでに何回か彼女が同じような不安で興奮した状態になっていたのを私は知っていたからです。
 前のときには彼女はある精神病院に送られてしまったことを私は思い出しました。これは彼女の母親が死んだ後のことでした。そのときには、彼女は突然にひどい恐怖感に圧倒されていったのでした。夫は出かけていませんでした。彼が呼び戻された後でさえ、彼女のパニックは扱いやすくはなりませんでした。家庭医が呼ばれ、彼は家ではできそうもない含み込みことを供給するようその地方の精神病院に依頼したのでした。
 この記憶はもうひとつの記憶を呼びさましました。子どもの頃、弟が生まれた後、彼女がひどく悲惨な状態にあったとき、患者は家から出されたのでした。彼女は食物を拒み始めました。新しく生まれた赤ん坊を世話している最中の母親はこの出来事にうまく対応できませんでした。ゆえに、彼女は(そのとき4歳だった)P夫人が小児院で世話されるように取り計らったのでした。
 私はこのことを思い出したとき、なじみのあるところにいると感じました。P夫人は私に向けて特別なインパクトを作り出してきていますが、それは、このセッションの間に私が思い出した事柄といった、とても重大なときに他者に向けて彼女がほとんど確実に作り出していたものでした。これらの人たちは、彼女の苦悩が彼らに感じさせたことにうまく対応していけなかったようでした。それぞれの場合の彼らの対応は、彼女を追いやってしまうことでした。
 P夫人は私のなかに、彼女を追いやってしまうという同じような考えを湧き上がらせていました。実際のところ、彼女がこのことを期待していると私はほとんど確信してしまうところでした。けれども、あのクッションを(彼女自身から離して)私にむかって投げた後は、彼女はそれを急いで取戻し、(彼女自身にくっつけて>腕の中でそれをあやしたのでした。この経過について思いめぐらしていくうち、よりせっぱ詰まっている絶望感とともにある希望という要素に私は気づき始めました。実際、P夫人は彼女が私に求めているもののモデルを私に与えていました。彼女は抱かれる赤ん坊としてそのクッションを抱いていました。彼女の中の絶望し、傷ついている子どもを抱きかかえるなんらかの手だてを私は見いだせるのでしょうか?そうできれば、(この度は)彼女は追いやられる必要はないのです。
 彼女の振舞いのなかのこれらのコミュニケーション要素に気が付いたところで、それを言葉にしていこうと決心する内的な確信を私は感じました。彼女はいまだにあやしていましたが、穏やかになってきていました。それで、私が彼女に話しかけることを受け入れる心の準備が彼女にはできていると私は感じました。

治療者:「ちょうど、いま、あなたになにが必要なのかをあなたが私に示していると思います。あなたをひどく怯えさせているそれらの感情の強烈さにふれていられるひとをあなたは求めています」(間)「私があなたを追いやってしまうとあなたは思っているんじゃないでしょうか。ちょうど、ほかの人たちが過去にそうしてきたように。でも、私はあなたが感じていることについてあなたを手助けし続けたいんですーあなたを追いやってしまわずに」(間)
「それらの感情があなたにとっていかに恐ろしいものかを私が感じるようにする手だてをあなたは見出さねばなりませんでした。あなたが叫んだこと、クッションを投げたことは、私がその不安を感じることにあなたが耐えられなくなっているとの警報を発するやり方でした」(長い間)「今あなたがそのクッションをしっかりと抱いていて、投げ捨ててしまわないことで、あなたが求めていることで、あなたのために私にできることをあなたが私に知らせていると思います」
 前にはまったく制御できない状態にあったその患者は、より穏やかになり、いくらかリラックスし始めていました。私は、このセッションの終わりを、追いやってしまうことと彼女が同じように体験する場合を恐れていました。けれども、そうはならず、彼女は残りの10分の間に気を取り戻し、私に感謝し、気分がよくなってきた、と言いました。彼女は次のセッションには私に会いにくるつもりでした。

検討:私がこの患者を含み込む方法を見いだすためには、患者の振舞いのなかに表されていた無意識の希望を認識できることが不可欠でした。ここで作動していた力動は、私が理解するようになっていた投影同一化を通してのコミュニケーションでした。
もし、私がこの過程になじんでいなかったとしたら、(それはあいだがらでの抱っこを求めている患者たちでとてもしばしば作動しているものですが)私も医者を呼んでいたであろうことはありえたことです。しかし、これらの境遇のもとで私がそうしていたなら、彼女の苦しみは、それと折りあっていkぷとするどんな人にとっても荷が重すぎるものとしていつも終わってしまう、とのこの患者の空想を私が確証してしまうことになったでしょうし、含み込むことの早期の失敗に基づいた彼女に拒絶される恐怖を強化してしまったでしょう。同じようなめいめいの拒絶につれて、この空想はもっと根深く、より扱い難いものになっていたことでしょう。
 このような患者たちからのインパクトの強度は、人物による含み込みを見つけ出す早期の試みが失敗したその頻度の物差なのです。私は思うのですが、精神病院患者のいくらかは、彼らを含み込めなかった人々からあまりに頻回に失望させられた被災者で、彼らは、どんな人たちに対しても彼らの強烈な感情を安全には表現できないという仮説に終わってしまっているのです。そして、もし、誰かがそうした患者に希望をもたせようとあえてするなら、その人物は、予想される失敗や拒絶を見つけるために、繰り返しテストされることを予期することになります。
 そうしたわけで、もし、私たちが現実的にそのテストされる時期のあいだ中ずっとこの種の患者を見ていられるのでなければ、おそらく、私たちは試みることを申し出ない方がいいでしょう。治療者がテストされることを切り抜けて生き延びることができたときにはじめて、「どん底」bottom of the troughに至り、そして、そこから再び這い上がってくることで、この新しい体験が過去の体験の深い印象を消し始めうるのです。
 ある傷ついた患者たちとの間では、私たちはものすごい責任を引き受けます。私たちの生き残るテストすることが彼らにもっとも必要なところで私たちが生き残れないなら、私たちは、彼らにとって事をもっとひどいものにしてしまうことになります。そうしたわけで、そこに含まれている危険性に私たちが充分に気づいてはじめて、薬物や入院での含み込みの代用としてのあいだがらででの含み込みを提供すべきなのです。なにを私たちが引き受けられるのかを私たちは知っておかねばなりません。