うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

草刈りと、カーグの画題と『精神療法における自殺患者』(患者から学ぶより)


今日は、渥美まで2往復!
夕方の送迎時、すろーじゃむによって、草刈をしてきました。
 高温で雨も多いので、伸び放題ですね!


 カーグの画題の準備もしてみましたが、上手く出来ませんでした(笑)あるものを切って植え変えただけです......。
親分が全紙の、黄ボール紙(馬糞紙)を100枚買ってきたので、大きい物を描いてもらったほうが良いのでしょうか?

学齢児さんの入浴があり、バスを待つ間『患者から学ぶ』を読ませていただきましたが、先日読ませていただいた個所のアップです。
この章は、全部アップしたいです(笑)長いですが、是非とも呼んでいただきたいです。支援の考え方のヒントが沢山あります!


精神療法における自殺患者
例6・3
 これから、薬物療法にすっかり頼っていたある患者(F夫人)の例を示したいと思います。生涯にわたっていた彼女の過剰な自信がくずれ始めてきたことに彼女が気づき始めたとき、人によって「抱っこ」されることの代用として、彼女はこれにそもそも頼ったのでした。彼女は人が与えられそうな程度より以上を人に求めていました。そうしたわけで、そのことの代用として薬にますます頼っていくようになりました。ついには、自分自身を殺してしまおうとする試みから、過剰な量の薬を彼女は使いましたしーそして、彼女が一番必要としていたときに彼女のためにそこにいてくれなかった人たちを(無意識に)処罰しようとしていたのでした。
 
 F夫人(50歳)は、まったく明らかな自殺企図ののちに病院から私に送られてきました。彼女はほとんど死ぬところでした。このことは、彼女がとてもひどい不安を感じているのに、まわりの人たちは彼女が感じていることに心をふれさせることを拒絶していると彼女が体験したときに起こったのでした。
 彼女が私に会いに来始めたとき、現実的な理由があるとのことで、彼女は週に1回しか来られませんでした。彼女は不安状態と不眠のためにまだ投薬を受けていました。けれども、睡眠困難は続いていました。眠れたときでさえ、不安のためにたびたび目を覚ましますし、その不安は、しばしばひどい恐怖にさえ至ったのでした。

 あるセッションでF夫人は、またもや耐え難いものになってきているそれらの感情を鎮めるものがどうしても必要だち言って、送ってきた精神科医に彼女の薬物を変えるか増やすかするように私に頼んできました。Y博士(送ってきた精神科医)にしても私にしても彼女が毎晩どんなひどい恐怖をやり過ごさねばならないかをわかっていない、と彼女は確信していました。そして、このことは何によってもどうにもできないことでした。病院が彼女の生命を助けてしまったことを彼女はひどく悔いていました。

 Y博士とその問題を検討することには私は同意しました。しかし、彼女の薬物の変更については私は何も約束しませんでした。彼女が本当に必要としていることが薬を増やすことなのか、私には確信できないと私は言いました。

 患者:「明らかに、あなたはわかっていないんです。耐え難いのがあなたにはわからないのですね?あなたにはやるべきことがあるんです。私は不安とひどい恐怖と眠れないことでもうやっていけません。もっと薬が必要です。」

 治療者:「あなたがもっと必要としているなにかがあることは私にもわかります。私がもっと薬を増やすことだとは思いません。それにしても、薬は何を表しているのでしょう。あなたにもっと利用できる人をあなたが求めていたときがあったと思います。けれども、その人物があなたの感情の強烈さと折りあいをつけないか、つける気がないとあなたは体験しました。それから、それに変わって、薬でそれらの感情を締め出そうとしてきたのでしょう」

 患者:「こんな話にはついていけません。あなたはY先生に薬を増やすか、もっと強い薬を出すように頼むんです」

 治療者:「Y先生に話しましょう。けれども、今週ここでもっと時間を持つようあなたに考えていただきたいとも私はお伝えしたいのです。あなたがやって来るようとの気持ちになられるなら、3日後に私はお会いできます」

 F夫人は臨時のセッションにやってきました。彼女は前より穏やかでしたが、いくらかとまどっているようでした。何が起こったかを彼女は説明しました。

 前回のセッションのあと、たくさんのことが起こりました。彼女は2番目の入眠剤を取り出して置きました。それは真夜中を過ぎても眠れないときに飲むためでした(それは彼女の日常習慣になっていました)。その朝、彼女は目を覚まして、その薬をのまずに眠れたことに気がついたのでした。

 それから彼女は私に子ども時代のひとときについて語りました。彼女はおおよそ3歳で、母親が赤ん坊の妹の世話で忙しかった頃のことです。F夫人は、住んでいた家の角を曲がったところにあった駄菓子屋によく通っていたものでした。そして、カウンターの向こうの男性がおしゃぶりをくれたものでした。母親は彼女がおしゃぶりを持っていることを嫌い、彼女から取ってしまおうとしました。けれども、その店のその男性は、彼女が求めるならいつでもべつのそれを彼女にくれたのでした。

 私はF夫人に伝えました。その男性が彼女によくくれたおしゃぶりは、彼女が求めてはいたが、それなしに過さねばならなかった彼女の母親を表しています。もっと彼女と過してもらいたいことを母親に伝える方法として、彼女はおしゃぶりを求めて通っていたのに、F夫人が母親に与えていたその苦悩のシグナルに母親は反応しなかったようです。それで、母親がもっと注意を向けることをしないでおしゃぶりをたびたび取り去ったとき、F夫人はおしゃぶりこそがもっとたくさん必要なのだと感じるようになったのでしょう。いまもっと多く薬を欲しがっていることは、彼女のなかの不安な子どもがおしゃぶりを欲しがっていることのようです。

 それから、頓服の入眠剤なしに眠れた夜に、ある記憶に彼女は驚かされたとF夫人は私に言いました。「それはとても生々しくて、いま本当に体験しているかのようでした」彼女は母親とベッドにいる(これは彼女が小さかった頃ときどきあったことでした)と感じていました。そして、母親の「大きくてたくましい背中」が彼女の横にあると感じていました。これは、母親が寝ている間そばにくっついていられる、子どもとして彼女のもっとも幸せな体験のひとつだったものでした。

 私は言いました。母親が寝ている間が母親の前で隠された要求をなすことができると感じる、母親に寄りかかっていると彼女が感じる、唯一のときだったのでしょう。というのは、そこには母親が受け入れなかったり、行ってしまったりする恐れがないからです。F夫人は同意し、それから泣き始めました。そうして、彼女が感じていることにふれておく心の準備ができている誰かの前で泣いていることのなかで彼女の早期の苦悩を表現できたことに、その苦悩からのやすらぎを彼女が見出したことが次第に明らかになってきました。

検討:F夫人に臨時のセッションを提供することが前の例のS氏の場合のそれとなにゆえ異なっていたのでしょう?
F夫人はたくましく、独立独歩で、誰でもが寄りかかれる人物といつも見られてきたことが彼女の人生を通しての特徴でした。彼女は怯えて、依存的な自己を誰にも知らせてはならないと感じていました。それどころか、頼ろうとするサインをひとたび見せたらいつでも去ってしまうと彼女に体験されていたほかの人たちと、いくらかでもふれあいを保つために、彼女はいつもこのことを隠そうとしていました。庫の隠しごとの手助けを服薬に頼っていました。鎮静が彼女の感情をいまだ消し去れないときに、彼女は自分自身を消し去るのに近いところまで増量しました。
 それゆえ、彼女の自殺の企ては、もはや彼女が自分ひとりでは扱えないこれらの感情を最終的に消そうとする試みでした。彼女がもっとも窮迫needyを感じているときには誰も彼女と折りあっていけないし、ゆえに、もっと強い薬を手に入れなければならないとのF夫人自身の見立てに私が従ったなら、彼女自身のもっとも扱い難い感情の取り扱えなさについての彼女の空想と私が結託したことになりましょう。そのかわりに、彼女が自分自身を1週間にほんの1回のセッションに限っていたことに私が挑戦したことは、もっと筋が通っていました。彼女が感じていることにふれあい続けることに私が気乗りしていないと彼女が一番感じていたときに、もっと私を利用できると私は申し出ました。彼女から引きこもるといまだに予期されていた彼女の母親を表象している私とで、小児期に否定されていた窮迫さが彼女にあったときを再体験する機会を、いまや、治療のなかで彼女は手に入れたのでした。このことが新たな記憶、母親の存在の代用(おしゃぶり)を彼女が求めていたことや、母親が寝ている間にやすらぎを彼女が見出していたことー母親がそのことに気づいていなかったので安全と感じられていた秘密の依存―と関連があるもの、を呼び起こしました。

 F夫人は、密かにではなく、あからさまに私を利用できることに、徐々にあえて委ねていきました。そして、この「あいだがらでの抱っこ」relation-ship-holdingの効果は目をみはるものでした。ひとつのあいだがらのなかに彼女自身のもっとも扱い難い苦悩感が含み込まれえるのを彼女は発見し始めました。もちろん、再び誰かほかの人に頼るよう自分の身を委ねることに向うこの躊躇しながらの新しい動きにまつわって、それからやっていかねばならないことがもっとたくさんありました。それにもかかわらず、服薬だけからやすらぎを探し求めるよりむしろ、ある人物ともっとときを過すことが彼女に必要なことについての私の確固ととした態度は、私によって抱かれていると彼女が感じていくのを援助しました。

 数ヵ月のあいだに、F夫人は別の安心感を発達させ始めました。それは、いまや彼女が自分自身のなかに内在化でき、確固としたもののできた外部の信頼できるものを使用することに基づいていました。新たに築かれた彼女の剛さは、生涯にわたっていた過剰な自信とは異なっていました。彼女の早い時期からの早熟すぎた成熟。それは荷をしょいこみすぎている母親を防衛的に守るためにいきついたものでしたが、それが今では違ったふうに辿りついたもっと信頼できる成熟へと道を譲りました。今度はそれは他の人たちのペースというよりむしろ、彼女自身のペースで成し遂げられたようでした。それは脆いものではなく、もっと弾力のあるものでした。

 数年後、彼女の夫が突然亡くなったとき、この進展は劇的に確証されました。患者のG.P.〔家庭医―(訳者)〕は彼女の差し迫っている苦悩を和らげようとF夫人に精神安定剤を再び処方しようとしました。けれども、彼女は彼女の治療者に会う手はずを整える方を選びたいとはっきりと彼に伝えました。このことを彼女は実行し、以前にはひどく恐れていたこの喪失への哀悼を始めていく間、彼女が理解されていると感じる関係のなかで分析的に抱かれることに再び彼女自身を置きました。