うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

葛の花と『含み込むことのキー・ダイナミックス』(患者から学ぶより)


 先日、葛の花で遊んでみました(笑)
最近は、ひーひー王子との散歩で完成をイメージしないで、目に付いた物をふたつだけ頂いて来て、行き当たりばったりで(笑)入れたいなと思い、やっているので、本当に実力がないと上手くいきません(笑)
 ボケ防止に良いかな?(笑)と思い始めました。

 なので、こんな無茶な(笑)取り合わせもやってみました。

 葛の花は、自分が生まれた場所に葛の葉神社があり、それだけの理由で(笑)自分の花・葉にしていて、京都時代に、葛の着物を作ったこともありました。麻の反物を買って来て全面に葛の葉を垂らしました。
 大阪の母親に貰って頂きましたが、母親も色々あり、どこかに行ってしまったようです。力作だったので残念ですが.......。
 
 自分では勝手に、安倍晴明の生まれ変わり(和泉から阿倍野に引っ越ししたので)と妄想していましたが(笑)阿倍野から堺に引っ越しして京都に行ったので、千利休の生まれ変わりと、凄すぎる(笑)妄想をしていました.......。(笑)


 喘息の受診の待ち時間に『患者から学ぶ』を読ませていただきました。職員の中に、利用者さんが椅子を床にぶつけてドンドンしたり、夜中に奇声を上げたりされる方がいて、その現場にいると、とても胸が痛むという話を耳にしました。恐らく、逆転移してしまっているのでしょうね。簡単な精神分析の本を専門家の方が書いてくれないでしょうか?
と、切に願います!
 そんな中、今日読ませて頂いていた箇所がどんぴしゃだったので、アップさせていただきます。
 転移・逆転移の勉強をして、生き残る(ウィニコット)ことを望みます。その職員さんは、勉強すればもっと利用者さんも・本人も楽に支援ができる可能性がある方なので、勉強しないともったいないなと思います。
 


第6章 含み込むことのキー・ダイナミックス
含み込むこと
 手助けがないことには自分自身の感情と折りあえないときがるものです。そのときには、これらの感情がほかの人たちに向けて溢れ出ていると私たちは考えることができましょう。この現象についての分析的な見地は、この溢れ出ること、含み込めないことをなにかまずいものがある、援助なしには取り扱えないものがある、というほかの人への無意識のコミュニケーションとして捉えるものです。
 基本的には、探し求められている援助とは、おおよそ、これらの難しい感情を改善するのに利用できる人物を求めることなのです。しかし、周囲の人びとからの反応は、しばしば、それらの感情をあたかも異常か危険なものと取り扱おうとするものです。薬物がそれらを抑えましょう。どこかよそに送ってしまうことは、そうしなければそうした圧迫にもっとも直接にさらされる人々にとっては問題を鎮めてくれましょう。しかし、激しい感情に苦しめられていると内心感じている患者には、このことはほとんど何もなさないでしょう。
 もし何かあるとすれば、これらのそらしてしまうもしくは抑制してしまう方法によって、誰にも扱えない強烈な感情があるとの感覚が付け加えられることでしょう。もし、このことが実際にその通りなら、たとえ嗜癖的な手段によってであっても、抑制の方が解決がないと見なされるあがきを続けていくことより好ましいように見えましょう。
 私はここで「包み込むこと」containmentという概念を、そうでなければ含み込まれえない、ほかの人の扱い難い感情の取り扱いについての一般的な用語として使っています。入院治療についてもそうです。それは病気であっても安全な場所が必要な人々への「保護施設」を提供できます。そうではあるにしても、一般には、含み込みのパーソナルな形こそが探し求められているものであることに注意を向けて続けておくことが大切です。
 もっと人間味のある言葉を使えば、求められているものは、抱っこという形態ですし、それは母親がむずかっている子どもに与えるようなものです。ひとりの大人がもうひとりの大人にこの抱っこ(もしくは含み込み)を授けるさまざまなやり方があります。そして、回避とか抑制を続けることをやめ、人生や人生での困難を取り扱う能力を回復するか、もしくは、はじめて発見するためにこのように抱かれることは患者には重大なことでしょう。
 抑制によって感情が「取り扱わ」れているときには、その人は休息のときを与えられましょうし、その間の人生の問題が違ったふうに対応されましょう。かなりの人にはあるストレスのときをやり過ごすにはこれが充分な手助けになります。ですから、この形の援助は軽視されてはなりません。
 しかし、もっとも扱い難い感情は回避によってのみ取り扱われうる、との空想に固執し続けている人たちがいます。これらの取り扱えない感情が持つと考えられている圧倒する力は、ほかの人々があたかも彼らのその評価を分かちあうかのように彼らを取り扱うことで確証されます。ある関係のなかでそれらの感情が容認されたときにはじめて、その根底にある空想が修正され始めます。そうしたことで、感じないままで無知ゆえにそらされているのではなく、そうと理解しつつ、治療者への攻撃を切り抜けて生き残れることは(患者にも治療者にも)まったく異なった体験なのです。ここでは、治療者が彼らとの間で何が再演されているかについての洞察を得ておくことが大切です。治療者が生き残ることと、この体験のなかで何に出会っているのかを理解していることの両者が究極の回復にとって中核となるからです。〜



 コンテインという語は、ビオンから習ったので、ビオンの説明もアップさせて頂きました。


1. コンテイナー/コンテイン
精神分析、とくに対象関係論の場合は援助関係の基底に母親と乳児の交流をオリジナルなモデルとして置いている。含む、包むという意味を持つコンテインcontainは、ありふれた日常用語の一つであるが、この言葉が精神分析で特別な意味を持つようになったのは、ビオンが分析の二者の交流の性質を【コンテイナー/コンテインドcontainer/contained】(記号化したときとは♀/♂)として表現し始めたことに端を発している。
治療者としての私たちは、コンテイナー(包み込むもの)として、アナライザンド(被分析者)の抱えきれないで心から吐き出している不安や破壊衝動、苦悩を含む考えや空想といったコンテインド(包み込まれるもの)を、私たちのこころに包み込もうとしていくのである。




 凄い風雨ですが、被害が大きくならないように祈るだけです。