うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

夏はお茶の精分が弱まると、相互交流的視点についてのあらまし


 写真はお薄ですが、最近、お抹茶が美味しくないなと思いながら頂いていたら、ふと『夏はお茶の精分が弱まる』を思い出しました。『南方録』そのままは、自分にはハードルが高いので、ネットで調べていたら分かりやすい物があり、貼らせて頂きました。
 流行っていますが、お茶碗に氷を入れるのは、自分は好きではありません。道具の組み合わせで、季節を感じたい方です(笑)自宅にはまともな道具はありませんが.......。写真はイメージです(笑)

風炉濃茶かならず釜に水さすと一筋におもふ人はあやまり」 (利休百首)
 〜この風炉濃茶「一杓の水」をさすことについては、茶が古くなり、茶の気が弱まる風炉の時期には、風炉の熱湯に水を一杓入れて湯をやわらげることで、衰えた茶の気を助けると教えた千利休の逸話が『南方録』にある。
 現在でもこの説明がもっとも一般的であろう。この考え方を、新茶・十日茶の別によるという意味で、「茶の新古説」とよぶこととする。
たとえば表千家流の教本には「このころ(風炉の時期引用者注)使うお茶は、前の年にとれたお茶なので、いくぶん、気が弱っている。このため、水を入れることで湯相をととのえる」と説明されている。裏千家流の教本には、単に「さきに水をさし湯加減をみる」と記されるが「風炉の季節(五〜十月)はお茶の精分が弱まっているので、水を入れて湯を和らげる」などのように表千家流と同様の説明をしている教本もみられる。〜
Kobe UniversityRepository :Kernel
Title 利休百首の「風炉濃茶かならず釜に水さすと一筋におも
ふ人はあやまり」とは何を意味するのか
Author(s) 廣田, 吉崇
Citation 日本文化論年報,14:1-12
Issue date 2011-03
Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version publisher
URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81002972
Create Date:

追究されたい方はこちらで!http://ci.nii.ac.jp/naid/120003071668

 



 今日は事務仕事を沢山やらせて頂いた上、法人の事業報告者にミスがあると県から連絡があり、書類を4種類作成し直し、先程出来たところです(笑)
 昼間に、職員と支援について議論になりましたが、自分はまだまだ分かっていないので、本も沢山読ませて頂いています。議論するのは良い事ですが、自分だけがきちんと支援出来ているというのは、傲慢でしかないし、それでその人は終わってしまうのでは?と思ってしまいました。
 人間、いくつになっても勉強です。最年長の職員さんは、まだまだ勉強したいと言われていますので、親子ほど離れていますが、自分はその職員さんのように(議論した職員ではありません)死ぬまで勉強したいと思いました。
 ので(笑)少しだけ本を読ませて頂き、頑張ってアップ(笑)してみました。
本当に凄い人は、色んな立場の方の話を真剣に聞くことができる人です。周囲にいますか?中々いないですね......。
 やはり福祉職も転移・逆転移の理解をしないといけないと、改めて感じました。

3,心の中のスーパービジョン:過ちと修復 
相互交流的視点についてのあらまし
 ハイマンHeimann(1950)とリトルLittle(1951)による逆転移についての論文が発表されてから、分析関係は、そこでふたりの人物のやりとりがなされるあいだがらであると次第に認識されるようになっていきました。それぞれがお互いを知ろうと努めます。意識的に、無意識的に、お互いがそれぞれに影響を与えています。分析関係のこの局面は、わずかの人々の名前を挙げてみても、バリントBalint、ウィニコットWinnicott、ビオンBion、サンドラーSandler、サールズSearlesといった著者の著作を通して、暗に(そして、ときには、はっきりと)示されています。一方、ラングスLangsはこれらの事象を手広く検索しています。
 分析家は観察し、解釈する人であり、患者は、このあいだがらのなかで、無意識のコミュニケーションや病理の証拠を提出する唯一の人物であると考えるのはもはや適切とは言えません。患者たちは分析家をまっさらなスクリーンとは見ていません。彼らは、吟味されないままにいようとしている分析家を細かく調べますし、そして、彼らが相手にしているこの人物の本質についてのたくさんのヒントを見出します。彼らは分析家の心の状態を感知しますし、それに従って反応します。
 しばしば、分析家や精神療法家は当人が気づいている以上に自分自身について正体を思わず現しています。彼らは自分たちについてあけっぴろげには話さないでしょうし、個人的な問いには慎重になりましょう。けれども、患者にとって見当がつかない人のままではありません。母親の顔に喜びの気配や機嫌の機微を見る子どものように、治療者からのよく似た徴候に患者は耳を傾けますし、利用できるものはたくさんあるのです。
 患者は治療者の態度でのいつものマナーの変化をモニターしています。たとえば、セッションのなかでの治療者のくつろいだ状態やそわそわです。治療者のコメントの性質から伝わる無意識の含みについても彼らは注目します。これらの介入は必ずしも解釈的―患者の無意識から現われてくるものを意識化させることーとは限りません。ときには、それらは指示的で、患者がなにをしたり、感じたりするべきかを示唆しましょう。または、問いかけをすることで、侵入的でもありましょう。または、そらし気味で、焦点を変えるよう誘うでしょうが、そのことはそのセッションのなかで治療者がなにか難しいことをさけていることを示唆しえましょう。
 患者は、治療者の介入でのタイミングやその選択に気をつけています。彼らは、なぜこのことがコメントされ、あのことはコメントされなかったのか、いずれそのうち(もしくは、ぜんぜんされない)ではなく、なぜそのときに治療者が介入したのか、を自分自身に尋ねてみます。治療者が過度に活動的だったり、干渉的だったりするときには、患者たちは治療者の不安をも拾い上げます。同じように、彼らは長い沈黙にも思いをめぐらしますし、とりわけ、洪水のように患者の強烈な感情が表出されたときにそうです。その治療者は患者に圧倒されているのでしょうか?
 少なくとも無意識的には、そして、ときには、意識的に、患者たちは彼ら自身にむけて治療者を解釈します。彼らは治療者に無意識の解釈を与えさえするのです(Little 1951:381)。治療者が防衛的であると見られているとき、彼は怯えているとも見られます。このことはその治療者の患者を含み込む能力capacity to containについての不安を引き起こします。そのひとつの反応は、取扱い難い感情を別の人たちに向けて置き換えるとか、自分たち自身に向けてとり入れ的に向けかえたりすることで、患者が治療者に対して保護的に振る舞おうとすることです。もっと希望をもった患者の反応は、間違っていそうなどんなことにも治療者の注意を向けることで治療者の防衛性に挑むものです。患者たちは、伝えられてくることにふれあい続けようとする心構えを治療者が抱いているその度合いにいつも注意を向けています。それゆえ、患者が反応するであろう、コンサルティング・ルームのなかの客観的事実の諸構成要素を治療者が認識しておくことが重要なのです。とりわけ、ここにおいてこそ、試みの同一化が治療者に価値ある洞察を提供していきます。
治療のなかで私がなにか言うにしろ、なにも言わないままにしろ、どんなときにも、わたしはその患者にある]影響を与えています。ゆえに、私の入力、そのいくらかは初めは私はただちに意識していない物でしょうが、それへの患者の反応に耳を傾ける必要があるのです。その患者の立場に置いている私自身に耳を傾けることは、このやりとりの力動を私の意識の領域へと持ち込むように援助してくれます。 
 たびたび、患者たちは、あるセッションに治療者が寄与していることに二重の反応を見せます。ある水準では、外界現実に彼らは反応します。もうひとつの水準では、彼らは、過去の体験や彼らの内的現実の点から取り扱っていきます。そうしたことで、患者の反応が転移として考えられるときでも、これらは、治療者からのそのセッションのなかでの外的な引き金によって、しばしば、始まっています(第5章参照)。
 当然の結論として、患者が反応しているであろうセッションのなかで私自身が寄与しているものの性質を私が同定できるまでは、患者がなにをコミュニケートしようとしているのかを、私はしばしば理解できないということになります。
 患者への反応の引き金が同定できたなら、私は、その患者を今までと違って、(私は信じているのですが)もっと的を射て理解できます。ですから、私は、盲目の人のように、セッションのなかでの私の一歩一歩から私にはね返ってくるいろいろな種類のエコーに耳を傾けるよう努めます。これが私の考える、耳を傾けることについての相互交流的視点です。これが、その患者のなかからもっと自動的に湧き上がってくるものとは別個のものとしての患者への私自身の影響に私がふれておくことを手助けしてくれます。さらに、私への患者の影響も私はモニターするよう努めます。
 相互交流的視点の使用はこの本を通して暗黙のうちに示されているものです。私はここでそのおおよそを述べたのですが、それは、この章と第5章とに患者に耳を傾けるこのやり方を使用する私自身の初期の試みの明瞭な例を示しているからです。第8章で患者の無意識のヒントや助言の性質をもっと広い範囲にわたって見てみるつもりです。