うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

朝焼けと、どこかで見た写真?(笑)と、『『羨望と感謝』(1957:13,11)のなかで、クラインは「フロイトによって発見され,ジョアン・リヴィエールによってさらに発展させられた諸要素に加えて、羨望と羨望に対する防衛とが陰性治療反応においていかに重要な部分を演じているか」について論じた。』


今日も早番!眠たかったですが(笑)朝焼けが綺麗でした!
特に変わったこともなく、皆さんを送り出し、休みや、日中一時の方々がおられたので、男性陣で浜松や、すろーじゃむに行きました。

 おや?どこかで見た?と思われた方も居られるでしょうか?

 こちらの男性バージョンです(笑)
みなさん色々ありますが(おっちゃんも!)元気です!


 昨日、沢山待った甲斐があり、アップには困りません(笑)
なんで【注】がこんなに充実しているのでしょうか?
 段々難しくなりますが、核心に向かっている感じもします。


いつもより増して頭が回らず(笑)題名がやたら長くなりました!


第Ⅲ部 自己愛が分析家の作業に及ぼす影響
第5章 陰性治療反応を起こす自己愛的な患者



5) 『羨望と感謝』(1957:13,11)のなかで、クラインは「フロイトによって発見され,ジョアン・リヴィエールによってさらに発展させられた諸要素に加えて、羨望と羨望に対する防衛とが陰性治療反応においていかに重要な部分を演じているか」について論じた。彼女は「ある患者たちにおいては……この、助けになる解釈がすぐに破壊的な批判の対象になる。その解釈は、もはや彼らが受け取り、豊かなものとして体験した何か良いものとは感じられない」と述べている。羨望に満ちた患者はまた、分析家に仕事上の成功を与えたがらず、分析家が与えた解釈は患者の羨望に満ちた批判によって台なしにされ、価値のないものとされると彼女は説明する。羨望が解釈を受け入れることを妨害するのである。羨望に満ちた患者はまた、分析家の援助をけなすことに罪悪感を感じ、自分は精神分析を受けることによる利益を受ける資格がないと感じる(この罪の感覚は、陰性治療反応において罪悪感の重要性を指摘したフロイトの見解と明らかに関連がある)。良質の解釈によって喚起される羨望についてのメラニー・クラインの観察は、分析家およびその解釈を価値のないものとすることによって分析家に競争意識を向ける患者についてのホーナイ(1936)の記述とほぼ同様である。ただホーナイの場合は、羨望と陰性治療反応と関連づけるにあたって、患者が成功することを妨げる他者からくる羨望に対する恐れという面に限っていた。
 クラインは、羨望が刺激されるときに、成功することが危険なものとなることを強調している。患者は、良い対象を表す分析家に対して躁的勝ち誇り、分析家を脱価値化する。このことが強い迫害的な不安をも含んでいる。迫害的な恐怖は、外的な対象ばかりでなく、内的対象によっても恨みがましく攻撃される恐れと関係するものであるが、その内的対象は自我にはどんな良い点も成功を認めないで、けなし見下げるものとして体験される羨望に満ちた超自我としてあらわれる。羨望が超自我のなかに在る場合には、それが陰性治療反応の重要な一部分となる。羨望に満ちた超自我は特に耐え難いものなので、否認や分裂につながる(これはサデスティックな超自我と、それを意識化することの難しさに関するフロイトの見解とつながる)。ホーナイは、その論文のなかで、競争心、競合的な態度や羨望が、陰性治療反応を起こす患者においてきわめてあからさまに現れる印象を受けたと述べている。しかしながら、クラインの研究から明らかなように、最も強力な陰性治療反応が起こるのは、羨望に対する強い防衛が作り出された結果、羨望が隠されているか、あるいは沈黙したままのときである。羨望に対する防衛には、分裂、理想化、混乱、本来の対象から離脱して感情を匹敵させること、対象および自己を脱価値化すること、激しい独占欲、あるいは成功や所有によって他の人のなかに羨望をかき立てることによって状況を逆転させることなどが含まれる。これらの防衛のうちいくつか、特に分裂と理想化は、クラインが以前に妄想的-分裂的態勢に属する自我の最早期の防衛として記載したものと同一であり、主に破壊的な本能あるいは死の本能に対する防衛である。これは、早期の口唇的な羨望を死の本能の派生物ないしその表れとし、人生のはじまりからそれが存在することを強調するクラインの見解と一致する。クラインは、分裂排除された羨望の重要性について詳細に記載したが、それは患者が心のなかのある部分では解釈を役に立つものとして認めていながら、感謝して受け入れることができない在り方として、臨床場面でたびたび観察していたからである。羨望の分裂排除と分析家のなかへの投影は、分析家が無意識に繰り返し危険な報復者に仕立てあげられた結果、絶え間なく疑われることになるので、分析状況にとって重大な障害となる。羨望の分裂排除された側面が分析されて、自我が強化され、責任感が強まって、罪悪感と抑うつがより十分に体験されるようになると、「分析家への投影は減少し、それゆえ今度は患者がさらなる統合へと向かうのを分析家が援助するのはより容易になる。すなわち、陰性治療反応はその力を失いつつある」(Klein 1957:75-6)。この記載から羨望と羨望に対する防衛とが抑うつ態勢に到達するのに必要な自我の統合を妨げることが明らかである。それゆえ、陰性治療反応が長く続く患者は、抑うつ的になるより、むしろ分裂的になる傾向があり、抑うつ的な不安が十分に体験され、徹底操作され得るのは、分析のなかで羨望が意識化され、徹底操作されたときだけであることが理解できる。リヴィエールが記載したような陰性治療反応――すなわち、抑うつに対する躁的防衛――は、一般的には、それほど大変で扱い難いものではないが、例えば、著しい羨望が患者の躁的なシステムの一部として取り込まれている場合のような例外もある。



6)オリニック(1964,1970)は、陰性治療反応(NTR)を特殊な種類の拒絶症として検討している。彼は、この症候群それ自体が患者の防衛の核を表わすものであると強調する。これらの防衛は、本来は幼児期および子ども時代の必要性があった時期に呼び起こされた自己愛的な備給を強く受けた装置だったものが、発生的、力動的に幼児期に退行することによって再び呼び出されたものである。このことは、どんなにうまくいっている分析においても、陰性治療反応を避けられない患者たちがいることを示唆する。彼はまた、陰性治療反応を示す人びとが、生まれながら平均以上に攻撃的な口唇性と肛門性を授かっているため、母子の養育関係のストレスがその分強まること、一方、母親たちはそうした専横な子どもたちに対応しなければならないのであるが、同じことが分析のなかで繰り返されるという印象を述べている。しかしながら、その記載から、ある患者たちにおいては、NTRがおおむね転移抵抗の正常な側面であると彼がみなしていることは明らかである。彼は、拒絶症を陰性治療反応の一部分、すなわち患者がしばしばそれと融合してしまう、抑うつ的な前エディプス木の母性的な愛情対象との両価的な関係のなかで起こりうる自己喪失状態に対する防衛とみなしている。 
 オリニックは、ある種の肛門サディズム傾向をもつ患者においては、陰性治療反応が母親に対する行動の反復として起こる転移抵抗であると見なしている。分析中に陰性治療反応が長引くのは、分析家が患者と共謀して恒常的なサドーマゾ関係に引き込まれるときだけであり、それには分析家の逆転移の問題が含まれると彼は強調する。私は、患者とのマゾヒスティックな共謀を避けることが重要であるという点、およびそれが分析の行き詰まりを起こすという点ではオリニックの見解に賛成である。だがそれは患者よりも分析家の問題によって作り出された人工物である。