うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

マツムシと、リサイクルブックと、『患者、分析家、心の中のスパーバイザー』


 今日は玄関に、マツムシさんが来てました(笑)
ひーひー王子と散歩してたら、街頭にクワガタがいました。
 夏と秋のちょうど間って感じでしょうか?

昨日、図書館帰りに、リサイクルブックを買ってきました!
一冊50円なので、強気になれます(笑)まだ欲しい本がありましたが、図書館で5冊借り、自転車だったので2冊にしました。
50円で使える本が沢山あるので、毎週行きたいくらいですが、中々行けません......。


 夜勤明けで帰宅し横になると、目が覚めるのが必ず14時になっています(笑)
直ぐには使い物にならないので、インスタントラーメンをすすりながら(笑)『患者から学ぶ』を読ませていただきました。
 この本を書かれた方は、本当に大事なものを分かっておられる気がします。
自省の意味でもアップさせていただきます。
 自分の支援の考え方は、ウィニコットサリヴァンが軸で良い気がして来ましたが、もう少し他の方々の本も読ませていただかないと偏ってしまうなとも、この本を読ませていただいていて思いました。
 どの業界のスーパーバイザーも、強引な方が多いですね(笑)自分はアンチ人間なので、逆にこの仕事が向いているのかも知れませんね(笑)そんなことないか(笑)
浜松の大きな障害者支援施設の管理者の方が『施設が職員の働く場になっている』と言われていたのがなぜか?思い出しました。
自分たちも気をつけないといけませんね!


『患者から学ぶ』
1,患者から学ぶための予備思考
分析と養育での3人組
患者、分析家、心の中のスパーバイザー
 私は、上のようななじみ深い領域をいくらか詳しく取り扱ってみました。というのは、同じような力動が分析での関係に当てはまると思うからです。研修生との関係にこのことをもっとはっきり見てとることができます。
 研修中の分析家や治療者は、治療のなかで患者が必要としている分析的な抱っこについて学ぶ間、専門的に抱きかかえられていることを、とりわけ、必要としています。彼らが、圧迫のものとでさえも分析的に機能し続けるための安心感をもつのに、彼ら自身の分析の経験が利用できましょう。また、理論や技法についての知識によっても抱きかかえられましょう。けれども、それに加えて、患者と歩調をあわせ、役立つように意見を述べることができる研修生の潜在的能力を信じている経験豊かな人物によるスーパービジョン的な抱っこが求められます。
 しかしながら、研修生たちは、彼ら自身の人格と調和した作業のスタイルを伸ばしていけることが必要です。そんなわけで、たとえ、いかに無意識でも、彼が、あまりに、訓練分析家とかスーパーバイザーの模倣物となってしまうなら、本質的なものが失われてしまいましょう。
 スーパーバイザーの落とし穴のひとつに、(ここでは、私は、私がスーパーバイザーをした人々から学んだことを利用していますが)患者をどのように取り扱うかべきかについてのモデルをあまりにも強烈に提供しすぎる危険があります。
 このことが、研修生が自分自身のものを発達させることにはならず、スーパーバイザーの作業のしかたからあまりにも直接に借りてくるという偽りの過程から学ぶよう、研修生を誤らせます。研修生によっては、あたかも、治療(もしくは患者でさえも)が、スーパーバイザーによって乗っ取られしまったかのように感じてしまい、こうしたなかで、いつのまにか、ひどく傷ついてしまいます。
 ここには、母親としてどうあるべきかを教えられていると感じている母親と同じものがあります。この結果も、同じように、患者への研修生の分析的な姿勢にとっては妨げになりましょう。というのは、その研修生の、治療者としての自分自身を信じることの難しさを患者が表象するようになるなら、研修生はその患者と作業することに難題を抱え込むことになるからです。
 ウィニコットは、自分自身の子どもについての母親の理解を尊重することにいつも細かく気を配っていました。それゆえ、彼は、母親と赤ん坊一般についての専門家に過ぎない、とよく強調していました。ある母親には彼は役に立っていたのでしょうが、彼女自身の赤ん坊を誰よりも知っている人物として認められ続けているのは母親だったのです)Winnicot 1965a;第1章)。
 母親の抱っこと同じように、研修中の治療者への抱っこは、はじめは、外側からのものとして体験されます。移り変わっていくなかで、ふつう、スーパービジョンのその体験は内在化されます。終局的には、これは、その内在化されたスーパーバイザーから、独立して分離している内側の支持へと発達することが必要です。そこで、このさらなる発達を強調するために、私は、心の中のスーパーバイザーinternal supervisorという点から考えるようになっていきました(第2章参照)。
 心の中のスーパーバイザーがその個体化が不充分なままにとどまっているなら、治療者は、他の人の考え方に頼りすぎている傾向にあることになります。しかし、理論とか技法上の見解について、ある特定の学派に固執することは、どれでも、それ自体が浸入的になります。分析過程は、たやすく、前もって決められた方向に傾き始めましょうし、そのことは、分析過程が、真に探求的で分析的であることをやめてしまうことを意味しています。
 フロイト派の患者たちは、フロイト派の夢をみるようであるし、一方、ユング派やクライン派の患者たちは、彼らの分析家のそれぞれの理論上の立場にあう夢を見ると言われる、との精神分析批判者の言語(言語だけでありませんが)を話すよう教えられている証拠を握っていると私は思います。それらの分析家や治療者のなかに、赤ん坊が求めていることは自分たちがもっとも良く知っていると思っている母親たちと類似のものを見出せるようです。一方、「その赤ん坊によって」よりも、むしろ、書物によって自分たちの赤ん坊を育てることができる、と信じ込ませる育児についての権威者(なかでも、トルビー・キングTruby King)の誤った導きのために、自分自身の判断を充分に信じられない母親もいるのです。
 もし、「書物」にあまりに重要な地位が与えられるなら、書物の選択こそが重要なことがらになってきます。もし、統合された理論に最大の重要性がある、との信念に、もっと多くの分析家が疑問を抱いたのなら、たくさんの苦々しい論争は避けられたことでしょう。分析家や治療者はもっと患者に添って治療をすすめ、彼らに支持されていると感じている理論にもとづいたやり方を減らすべきでしょう。そうすることで、患者が自分に言われていることや分析の進め方と歩調があわないと感じているときに、治療者は気づきやすくなります。患者たちによっては、異なったスタイルの分析を必要としていましょう。治療者が、このことを許容する技法での余地を残しという名のもとに、この可能性に自らの枠を限ってしまうなら、その分析過程はひどく狭いものになってしまいます。
 理論上の偏りによる歪んだ影響を防ぐために、解釈する前や後とかスーパーバイズをしているとき、自分自身にふたつの問いをようにしておくことは役に立ちます。「その患者の個性individualityは尊ばれ、保護されているか、それとも、見過ごされ、侵されているか」、「このいまに、その分析空間のなかに誰が何を入れているのか、そして、それはなぜなのか」。
 精神分析は、個人の人格の生まれ直しを可能にするための潜在的な可能性をもっています。これが「クローン化」と似た過程へと限局されてくるなら、それは悲劇です。そこでは患者は分析家と彼の理論上の方向の「イメージの型にはめられる」ことになってしまいます。