うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

うたたね物干しと、『われわれは、ついには「道徳」的要素、すなわち罪悪感を扱っているのだと気づくようになる。』(フロイト1923:SE 19:49)


 うたたねに新しい物干しが出来ました!
設計士さんと大工さんがサプライズでつけてくれました!
本当にありがとうございます!
こちらだけでなく、今回の工事の設計料は無料で、大工工事も設計士さんが大工さんに泣いてやってくれと言って下さった様で、大分安くして頂けたようです。重ねて有難うございます!
 小さい法人は、地域の皆様に支えて頂いてなんぼのもんです。それがないとやっていけませんので、皆様の為にもより良い社会資源になれるよう頑張りますので、今後とも宜しくお願い致します。


精神分析から見た自閉スペクトラム』を読み終わり、本の山を整理していたら、『治療の行き詰まりと解釈』が出て来て(笑)そういえば、途中で終わっていたので読み始めました。
 第5章を読み終えましたが、内容も良かったのですが、【注】の豪華さにびっくりしたので、【注】を何回かに分けてアップさせて頂きたいなと思いました。

 罪悪感を感じないといけないのは、患者さんや利用者さんだけではなく、医師や支援者も感じないと(自己否定)いとも簡単に暗礁に乗り上げますね......。
 自分の評価を読み間違っていても中々それを感じるのは、よっぽど勉強(経験や体験を含む)していないと感じる事が難しいようですね。サリヴァンがいう、一番良い仕事をする精神科医は、日々の生活の糧を得るために頑張っている精神科医だと言っていました。それは、自分の名誉だけを考える人間と比較したものと思われます。
 現場でも名誉ばかり気にする輩がいますが、見ている人は見ていると、今日相談した元理事のお母さんが言っておられました。みんな言わないだけで分かっていました(笑)
 丁度その【注】にも当てはまるところがあったのでアップさせて頂きました。
 


第Ⅲ部 自己愛が分析家の作業に及ぼす影響
第5章 陰性治療反応を起こす自己愛的な患者

1)フロイト(1923:SE 19:49)は、治療中に患者が悪化する現象を以下のように説明する。


 われわれは、ついには「道徳」的要素、すなわち罪悪感を扱っているのだと気づくようになる。病むことで罪悪感は充足されるから、罰や苦痛を手放すのを拒むのである。この意気阻喪する見解を結論的なものとみなすことは正しいだろう。しかし、患者自身にとっては、罪悪感は沈黙したままである:彼に罪があるとは告げない:彼は罪悪感を感じないで、そのかわりに病気であると感じるのである。この罪悪感は、非常に克服し難い、回復への抵抗としてしか自ら表現しない。


 『マゾヒズムの経済論的な問題』(1924)において、フロイトは再び陰性治療反応について論じている。彼はここで、患者に無意識的な罪悪感を気づかせる困難さについて述べており、患者にとって罰せられるほうがそのことを述べるより望ましいのではなかろうかと考えている。彼はまた、サディズムマゾヒズムも、破壊的な本能、すなわち死の本能に起源をもつものなので、重い罪悪感や良心の呵責を引き起こす超自我サディズムと自我のマゾヒズムは、お互いに補完し合うことを指摘した。「終わりある分析と終わりなき分析」において、フロイトは陰性治療反応が死の本能と関連していると自分は見なしていることを明言している。
 フロイトは明らかに、超自我という概念が有効であることの証拠を提示するのを目的として、陰性治療反応について述べた(Spillius 1980)。しかし、この分析に抵抗し、意識させることができない、物言わぬ無意識の構造を描くことによって、フロイトがこの現象は活性化できないと信じ、死の本能の沈黙した影響に関連させた、沈黙の反応という自分の臨床的な経験と結びつけようとしたことは理解できる(Freud 1937)。
 フロイトによって記載された、それらの隠された要素を更に詳細に理解しようとすることが重要であると私は思う。なぜなら、陰性治療反応を扱う際のわれわれの治療成果は、表面化していない破壊的な要素を活性化させ得るか否かにかかわっているのであり、そうすることによって逆に、超自我がより探求しやすいものになるからである。


2)1919年という早い時期に、アブラハムは分析に対する、隠された、慢性的な抵抗について記載した。彼は分析が進展していることについて、分析家に全く何も伝えたがらない患者がいることを見出した。フロイトも、1923年に陰性治療反応を起こす患者の行動を記載するなかで、同じような観察を述べた。アブラハムは、これらの患者のなかに優位に立つことへの欲求があることを見出したことを強調したが、それはフロイトも手短に触れているものの、全く表面的なことであると見なした。アブラハムはこうした患者が自由連想を嫌がったり、分析家が自分より利口であるとは認めようとしないことを重視した。実際に、彼らは自分自身で、分析家よりもうまく分析しようとする。しかし、アブラハムは、実際には患者たちのはっきりした陰性治療反応について記載しなかった。それというのも、分析が進むと、彼らは分析家に対する羨望と憤慨を言葉にすることができるようになるからである。彼らが再び悪化するかどうかについては、アブラハムは明らかにしなかった。彼は、この種の患者の態度を羨望と肛門性愛に結びつけ、患者は「分析を自分の自己愛に対する攻撃と感じているが、それはつまりこの本能的な力に対する攻撃であって、これに対する治療者の治療的努力はいとも簡単に暗礁に乗り上げてしまう」(Abraham 1919:310)と強調した。アブラハムはこの論文の中で多くの事例を提示しているが、この論文は陰性治療反応についての重要な貢献であるとみなされるべきであり、今日でもなおはっきりと的を射たものであると私は思う。例えば、彼はこの陰性治療反応の説明のために、はっきりと自己愛と羨望とを結びつけている。熱心に分析を望む患者の表面的な態度についての記述は、多くの羨望が隠された(沈黙した)まま防衛されていたことを示唆している。隠された羨望を表面に引き出したのは、実際にはアブラハムの分析であった。アブラハムは、この論文では羨望を主に肛門性格の特性とみなしているが、後の論文「性格形成に及ぼす口唇愛の影響」(1924a)のなかでは、羨望の起源を口唇サディズム期においている。