うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

Human Natureと、『よそ者若者、ばか者』と、基板と、「償い」概念の発展 真の償い、躁的な償い、まがいものの償いより

 今日は所用で名古屋に一日いました。
先日、ふとMichael JacksonのHuman Natureが降りて来たので(笑)ギター用にアレンジしようと歩く移動の時間は、イヤホンでHuman Natureばかり聞いていました。メロディーが頭に入ったので、ギターを持てば弾けそうです。

 素敵な本も見つけました!
中身も素敵ですが帯の、

本当の美しさは、
見られることを意識せず、
自分が置かれたところと折り合いをつけることに、
ただ汲々として生きてきたものたちにこそある。 

建築家 青木 淳
に心惹かれました。塩月 弥栄子さんも同じような言葉残されていましたが....。素敵な本でしたので、今度買ってもらいます。



 電車の中では、ひたすら『クライン派の発展』を読ませて頂いていました。最後に少しだけアップさせて頂きます(笑)
 
 読みつかれてふと車窓を眺めた時に、世の中を変えていくのは『よそ者若者、ばか者』という言葉もあり〜( 小池都知事・就任会見で田嶋氏の質疑に応える、小池百合子)こちらも急に頭に浮かんできました。
北山修先生の言われる様に、まんじりとしている時に色々思い浮かぶのだなと改めて思いました。自分はこの地では『よそ者』だし頭が悪い『ばか者』だし(笑)『若者』ではありませんが......。まあ、もう少し頑張ってみようかなと思いました(笑)ただそれだけですが(笑)


 基板バッグを完成させたいと思い(これも一年前まんじりとしていた時に大須を歩いていて、小坂井電子さんの前を通り、思いつきました(笑))行き先とは方向が違ったのですが、大須に寄ってきて

100円の物を中心に(中に150円の物が一つありますが.....。)買ってきました(笑)どんな物に仕上がるか、楽しみに(個人的すぎますが)しています(笑)



 心理学が6割しか信用できないみたいな記事をアップさせて頂いた記憶がありますが、フロイトは彼の患者さんを診ての論文だし、クラインは彼女の、ウィニコットは彼の、サリヴァンも彼の患者さんを診ての論文なので(細かい技術的な事は省いて考えています)それらをどう利用するか、利用できるかは、自分自身の患者さんや利用者さんに当てはめて考えないといけないので、その人毎の論文や支援方法が必要になるので、先人が残してくれた遺産の上に立って考えるのが自分たちの仕事だと下記の文章を読んで、改めて思いました。

 藤木先生も新約聖書の中に、マタイの福音書などがあるように、聖書は自分が利用できるように解釈すれば良いと言われていたのも思い出しました。
 結局、基礎を学んで、自分で応用して行かなければいけないという事ですね。難しい事ですが、そうするしか今の自分には思いつきがありませんので、頑張ります。
 何が言いたいんだか(笑)分からないですね!
今日も暑かったですからね〜(笑)

クライン派の発展』 ドナルド・メルツァー (著), 松木 邦裕 (翻訳)
第2部 クラインの症例リチャード再考『児童分析の記録』の批評とメラニー・クライン解説
第6章 第6週[セッション30〜33]
「償い」概念の発展 真の償い、躁的な償い、まがいものの償い

〜クラインの業績を歴史的に、学び、彼女の技法と理論的装備の発展を追うことが私たちの主なアプローチでしたが、彼女が作業するうえで未だ携えていなかった理論的装備や、そのためにどのような窮地に彼女が追い込まれていたのかに気づくのも参考になります。それこそが、精神分析がパッケージする方法でしょう。つまり、分析家が自分の理解の枠組みでは窮地に陥ったままであると感じ、他の方法を探しはじめることです。分析家が今用いている枠組みは、状況をコンテインしておらず、その発展の援助もしていないのです。セッションの一部分を詳細に精査すれば明らかなように、クラインは1941年には、混乱についての実用的な概念をいまだもっていませんでした。混乱が支配的でないときでさえ、リチャードの素材が理解し難くなるのは、素材のさまざまな脈絡が同時に織り交ざって動いているからです。それは信じられないほど興味深く、一分前には部屋を出て階段に行ったかと思うと、次の一分は艦隊と遊び、それから夢やちょっとした情報を告げて、そうして再び艦隊遊びへと戻るというように、表現様式を変え続ける子供のとの作業は困難でも、どれほどやりがいのあるものであったか容易に想像できます。このような表現様式の絶えざる変化をどのように理解するかは問題となるところです。この変化は、早い時期のセッションのような「プレイの断裂」と呼びたくなるようなものとして生じています。けれども印象的なのは、今度は素材の性質の変化には、コミュニケーションの様式が変更されたという遥かに大きな意義があることです。それはまるでリチャードが、「いや、まだあなたはわかってない。僕が階段から飛び降りようとしたらわかるの?」と言っているかのようです。この持続的な表現の変化はクラインの負担になってはいるものの、まさに持続的に彼女に解釈を修正させ、そして彼女の理解をより近いものにしているのです。〜