うたた ka-gu’s diary

障がいをお持ちの方の、生活と余暇支援を行っている・NPO法人うたたのブログです

『一掃百態』渡辺 崋山と、『驚きの皮膚』傳田 光洋





 先日、崋山会館に行ったら、渡辺崋山コーナーがあり(当たり前か?)崋山に関する本が沢山ありました。その中で『一掃百態』の版画本があり、借りれるとのことでしたが、ギターを弾く用事で来ていたので、次回借りに行こうと思いました。
 原本は田原市博物館にあります!
地元に貢献された方だと、耳にはしていましたが、きちんと向き合ったことがなかったので色々調べてみましたら、下記の様な事が載っていました。
 鯨油によるイネの害虫駆除法は、今のマシン油での防除みたいですね!
 用水がなかったので、稲作は大変だったでしょうね。


〜こうして崋山は、藩政改革に尽力する。優秀な藩士の登用と士気向上のため、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図った。さらに農学者大蔵永常を田原に招聘して殖産興業を行おうとした。永常はまず田原で稲作の技術改良を行い、特に鯨油によるイネの害虫駆除法の導入は大きな成果につながったといわれている。さらに当時諸藩の有力な財源となりつつあった商品作物の栽培を行い、特に温暖な気候の渥美半島に着目してサトウキビ栽培を同地に定着させようとしたが、これはあまりうまくいかなかった。このほか、ハゼ・コウゾの栽培や蠟絞りの技術や、藩士の内職として土焼人形の製造法なども伝えている。

天保7年(1836年)から翌年にかけての天保の大飢饉の際には、あらかじめ食料備蓄庫(報民倉と命名)を築いておいたことや『凶荒心得書』という対応手引きを著して家中に綱紀粛正と倹約の徹底、領民救済の優先を徹底させることなどで、貧しい藩内で誰も餓死者を出さず、そのために全国で唯一幕府から表彰を受けている。また、崋山は藩の助郷免除嘆願のために海防政策を口実として利用した。それによって田原藩は幕府や諸藩から海防への取り組みを高く評価されたが、それは助郷免除嘆願のための隠れ蓑で、崋山自身は開国論を持っており鎖国・海防に反対だった。〜

 


 昨日、『驚きの皮膚』傳田 光洋をななめ読みさせて頂きましたが、皮膚に関しては難しかったです……。最近何を読んでもフロイトの名前が出て来ますが、この本も芸術の箇所、シュールリアリズムでもれなく出ていました。(これも、当たり前か?)
 まあ、本職のアートの箇所のアップでお許しください。
アール・ブリュットの話も出ていたのでびっくりしましたが、書かれている内容には納得です!
 因みに、横尾忠則さんの作品で、一般に出回っているのは、ご本人談によると偽物ばかりとのことです。よく鑑定してほしいと持って来ると他の本に書いていました。贋作でも出来が良くて安かったら欲しい人は沢山いるでしょうね。

 いつもバタバタした中でアップしているので、後から復習がてらブログを見ると、誤字脱字だらけで(笑)恥ずかしいです……。おまけに7月分は、給与計算の間違いもあったようで、皆さんにご迷惑をお掛けしました。申し訳ありませんでした。


『驚きの皮膚』傳田 光洋
第七部 芸術と科学について
システムと自己愛のジレンマ
「芸術とは我々がわざわざしつらえたベッドに身を横たえにくるのではない……芸術はその名を口にしただけで逃げ去るものだ……芸術が好むのはその名をしられないことである。その最良の瞬間とは芸術がその名を忘れた時なのだ」(ローザンヌ アールブリュット美術館リーフレット 翻訳者不明)

「システム」を作る本能が備わっているのと同時に、人間には自己を大切にする本能もあるはずです。これは、むしろすべての動物に備わっている本能でしょう。「システム」が巨大になると、この原初の本能、自己を愛する心と、システムとの間に軋轢が生まれるようになります〜
〜20世紀初頭、アフリカの「芸術」が、モジリアニやピカソのようなヨーロッパの最先端の芸術家に影響を及ぼしたのは、それが、「意識」ではなく、やはり神にささげる意図を持ったものであり、優れた芸術家の心を揺すぶったのだと思います〜

19世紀末から20世紀の初頭に、芸術の転機が訪れました。世界の一部を保存することから、自らの生を時空を超えて封印すること、そのような変化が現れたように感じます。その背景にはニュートン以降の科学で、世界がすべて数式で表現できるのではないか、という考えが広まったこと、そしてデカルトに代表されるように、一人ひとりの人間の存在意義が、個人の意識による、という思想が少しずつ広がったためではないかと私は考えています。「神の声」がまったく聞こえなくなり、「意識」だけになったためでしょう。

回帰する美術
〜日本人の芸術家の中で国際的にその活動が知られている横尾忠則氏は、自身の絵画について、次のように述べています。

「絵画の中から言葉を排除することで、絵画は絵画として自立するべきで、絵画が言葉の力を借りるのは絵画の衰退を意味すると同時に、肉体をも喪失しているような気がしてならない。ぼくはキャンパスに向かって絵筆に自由を与える時、極力絵の中から言葉を放出し、絵筆が自由気儘に戯れるために自らの身体性に全てを委ねて、自分が肉体感覚の機械になるべく、努めるようにしている」

「絵を描くことは、頭から言葉を一掃することである。少しでも言葉が残っていると、真の孤独になれないのだ。また無心になれないのだ。頭から一切の雑念を排除し、できれば煩悩から瞬間でも放たれたいのである。そして頭から発する言葉ではなく、肉体が発する言葉のみに耳を傾け、本性または魂の叫び掛けに応じる。それがぼくの絵画である」(『絵画の向こう側・ぼくの内側 未完への旅』岩波現代全書)

 この横尾氏の言葉ほど、本来、絵画が言語システムと対立することをはっきり示した文章はないでしょう。「言葉」を「意識」に置き換えると、前にお話したリベット博士の芸術論になります。

 さらに、日本人の芸術家でもう一人、世界的に有名な草間 彌生氏は、ニューヨークで食べるものにも事欠きながら、キャンパスの上に何万という微粒子の網を描き続けました。
「私には一つ一つの水玉をネガティブにした網の目の一量子の集積をもって、果てしない宇宙への無限を自分の位置から予言し、量りたい願望があった。どのくらいの神秘の深さをこめて、無限は宇宙の彼方に無限であるか、それを感知することによって、一個の水玉である自分の生命を見たい。水玉、すなわちミリオンの粒子の一点である私の命、水玉の天文学的な集積が繋ぐ白い虚無の網のよって、自らも他者も、宇宙のすべてをオブリタレイト(消滅)するというマニフェストを、この時、私はしたのである」(『無限の網―草間 彌生自伝』新潮文庫

 システムの構成員ではなく、独立した一人の人間として、自己と宇宙とをたらえたい。そんな想いが伝わってきます。原初の美術行為、その記憶を草間 彌生氏は持っておられるように思います。


 ジャン・デュビュフェが提唱し始めたアール・ブリュット(生の芸術)を集めた美術館がスイスのローザンヌにあります。ここには正規の美術教育を受けていない人々、精神障害者、あるいは犯罪者として社会から隔離された人の作品が展示されています。つまり「システム」に属さない人々、「システム」から排除された人々の営為なのです。その結果、作者のほとんどは誰かに見てもらおう、誉めてもらおう、という意図なく、彼らの無意識の衝動から作品を制作しています。それらは、凄まじい力を持っていて、さまざまな芸術運動のブームの変転の中で衰弱した現代美術より、よほど感動的です。彼らの作品が、「システム」に依存している私たちを、本来の個人に戻すからでしょう。〜